2ページ目 【列島の外にまで勢力を及ぼした大和政権が直ちに天皇を名乗らなかったのは?】
3ページ目 【日本で始めて「スーパー・パワー」を打ち立て、「皇帝」になったのは誰か】
【列島の外にまで勢力を及ぼした大和政権が直ちに天皇を名乗らなかったのは?】
大和政権の成立と覇権の確立
日本では、紀元前後に、複数の集落を束ねる「クニ」ができ、これがいくつもにわかれていたようです。やがて、クニをさらに束ねる強力な政権がいくつかできたようですが、定かなものは限られています。その1つが、いわゆる3世紀にあったとされる「邪馬台国」ですが、これがその後どうなったのか、説はいろいろありますが、よくわかりません。
ともかく、最終的に覇権を握ったのは、今の奈良県周辺を本拠地とした大和政権でした。この勢いはすさまじく、またたく間に各地の有力な豪族=キミを服属させ、列島を支配していきました。
その勢いは、古墳としては世界的規模を誇る大阪府の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)や同じく大阪府の誉田御廟山(ごんたごびょうやま)古墳(応神天皇陵)によりみることができます。これらは、大和政権のリーダー「大王(オオキミ)」の墓であるとされます。
そして、この大王こそが、後の天皇になるわけです。
朝鮮半島にまで進出する大和政権
この勢いは朝鮮半島にも及び、しばしば今の朝鮮半島北部~中国東北部を支配していた高句麗(こうくり)とも争うようになります。強大な勢力を誇った高句麗を破ることは容易なことではなかったようですが、これにより朝鮮半島経由で最新の大陸文化を導入することができたことは成果でした。
また、列島が鉄資源に乏しかったため、大和政権は朝鮮半島南部の伽耶(かや)諸国と密接な関係を結び、鉄資源の確保に努めたようです。
日本書紀では、伽耶諸国を任那(みまな)といい、あたかも大和政権が支配していたかのように記述していますが、それを裏付ける証拠は乏しいのが実情です。
そしてその勢いは中国にも轟きます。中国の歴史書に記述されている「倭の五王」は大王のことだといわれていて、そのなかの一人である武、これは大王雄略であるとされているのですが、彼が中国の宋王朝に使いをして、将軍の称号を授かったと『宋書』に記述されています。
しかし、ここに疑問が生じます。これほどの勢いをもった大王は、なぜ中国の皇帝からわざわざ将軍の位をもらう必要があったのか。それは、この当時の東アジアの情勢を見ると、さらに大きくなっていきます。
なぜ大王雄略は中国皇帝から将軍の位をもらったのか
すなわち、この時代、中国はながらく南北朝時代という分裂時代でした。しかも、北朝も南朝も、たびたび分裂・交代を繰り返し、政情は不安定でした。ですから、この時代、むしろ周辺諸国は、中国の力から自由になった時代でもありました。
そして、朝鮮半島は、高句麗・新羅(しらぎ・しんら)・百済(くだら・ひゃくさい)そして日本と関係の深い伽耶諸国に分かれ、特に日本に脅威のある存在は、いませんでした。
いるとしたら、伽耶諸国を圧迫するおそれのあった高句麗ですが、実際には高句麗もそこまで力を及ぼすことはできませんでした。
そして大王雄略の武名は列島各地に轟き、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣にも、彼を指す「ワカタケル大王」の字が刻まれているほどです。これだけの勢威をふるった大王雄略が、将軍の称号を受け取る理由は何だったのでしょう。
ここからは私の仮説になりますが、おそらく大王家内部の事情が背景にあったのではないかと思われます。『日本書紀』によると、大王雄略は即位の際に反対勢力の大粛清を行っていたり、さらに彼の死後、後継者をめぐる争いが起こったりしています。
おそらく、大王家の内部でなんらかの争いがあり、それを制するため将軍の称号をもらいにいった……というのが、私の仮説です。地方の豪族や朝鮮半島をしずめるため、というのは、そのときの大和政権全体の力や、中国や周辺諸国のパワーの弱さを考えるに、ちょっと説得力がないと思われるのです。
東アジア情勢の激変が「天皇」を名乗るきっかけに
ともかくも、この時代までは、東アジアにスーパー・パワーは存在せず、したがって大和政権はその存在を脅かされることもなかったので、あえて皇帝を意味する天皇を名乗ることはなかったし、その発想もなかったと思われます。しかし、東アジア情勢は6世紀末から7世紀にかけて激変していきます。そのため、大王は、ヤマトの国がはっきりとした独立国であることを、内外に示す必要がでてきたのです。
それが、中国の属国的な国号「倭」を否定して「日本」という国号を使用することであり、そして大王が皇帝を意味する「天皇」という称号を名乗ることだったのです。
次のページでは、大王が天皇を名乗るに至った経緯を、見ていきたいと思います。