(2005.02.03)

ロシアのプーチン大統領訪日の前に押さえておきたい北方領土問題基礎知識の後編。なぜ、何十年たっても北方領土は帰ってこないのか。それを示す日ソ・日ロ交渉の歴史をみていきましょう。

「前編」はこちら

1ページ目 【国際文書の解釈で最初から難航した日ソ交渉】
2ページ目 【ソ連だけでなく、アメリカからも揺さぶられる交渉の行方】
3ページ目 【日ソ共同宣言と東京宣言】

【国際文書の解釈で最初から難航した日ソ交渉】

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なぜソ連は「非公式」に交渉を開始しようとしたか

さて、前回ソ連のドムニツキーという人が鳩山首相の私邸に現れ、日ソ交渉が始まることになったと書いたのですが、なぜソ連は日本の外務省を通さなかったのでしょう。

それは外務省がドムニツキーは「私人」であり、交渉能力なしとみなしたからです。だったらソ連は正式に特使を派遣すればよかったのですが、それもしなかった。なぜか。

第1に、吉田政権から鳩山政権に代わったといっても、外務官僚は依然として吉田系の親アメリカ路線組が多い。ここに話を持っていっても、潰されると判断した模様です。

もう1つに、外相が重光葵だったことがあります。この人は吉田茂と同じく戦前からの外交官で、上海事変の終息につとめたり、ナチス・ドイツとの同盟に反対したりしていたのですが(のちに外相)、ソ連の主張でA級戦犯として逮捕されます。

逮捕の理由は「外相なのに捕虜の扱いに注意しなかった」という、アメリカなどが考えてもクビをひねる理由だったのですが、アメリカもソ連との関係を考え妥協、結果重光は懲役7年の判決を受けます(その後2年あまりで釈放)。

なんでそうなったのかは諸説あるのですが(戦前の日ソ交渉でソ連を怒らせたからという説が有力)、そんな重光がトップの外務省と交渉するのは気まずい、というのもあったのでしょう。

松本・マレク会談の開始

そんなこんなで、日ソ交渉は非公式な形で始まることになりました。日本からは外交官出身の松本俊一衆議院議員が、ソ連からはマレク駐イギリス大使が立ち、ロンドンで交渉することになりました。

この交渉は、特に北方領土問題で紛糾します。ソ連は、ポツダム宣言で北方領土を含む千島の日本放棄は明らかだ、といっているのに対し、日本はその解釈はおかしいと主張します。

確かに日本が終戦にあたって受け入れたポツダム宣言第8項には、

「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ(下線部筆者による)

つまり、日本の領土は北海道・本州・四国・九州とまわりの小さな島だけだ、と規定されています。これは日本が受け入れたわけですから、ヤルタ協定と違って日本を拘束します。

しかし、下線部がついているところに書いているように、あくまで「カイロ宣言の履行」のため、日本の領土を制限するのです。

主要連合国の首脳が集まって作ったカイロ宣言(1943年)では何をいっているかというと、

日本國ハ又暴力及貪慾(どんよく)ニ依リ日本國ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ驅逐(くちく)セラルヘシ

つまり日本を暴力など侵略行為で得た地域から追い出すぞ、ということです。

台湾・朝鮮半島はたしかに侵略行為で得たものでしょう。しかし、前編で見たように、北方領土はペリー来航であわてふためく江戸幕府とロシアとの交渉で確定した領土です。侵略で得た地域ではありません。

しかし、ソ連はそのようなことは一切聞き入れず、交渉は難航するのでした。