2ページ目 【ギリシャの民主化までの道のりはクーデターあり内戦あり、苦難の連続だった】
3ページ目 【ギリシャと隣国トルコが抱える最大の問題、キプロス分断の基礎知識】
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【ギリシャの民主化までの道のりはクーデターあり内戦あり、苦難の連続だった】
王制、共和制、軍事政権とめまぐるしく動いた政治体制
紀元前からの長い歴史を持つギリシャですが、15世紀からは強大な力を誇り、2度にわたってウィーンを包囲するまでに至ったオスマン=トルコ帝国の支配下にはいり、なかなか独立できませんでした。しかし19世紀に入り、オスマン帝国もじょじょに力が衰えていきます。それとともにギリシャ人のナショナリズムも高まり、1829年に独立戦争を起こし、王国として独立を果たします。
しかし、それから国王派と共和制派との間で激しい対立が起こり、政情は不安定でした。そんななか、ギリシャ王室は古き昔のビザンティン帝国(東ローマ帝国)の復興と銘打って第1次世界大戦に敗北したばかりのトルコに戦争を挑みます。
しかしトルコは「トルコの父」といわれるケマル=アタチュルクによって急速な近代化が進み(帝政は廃止)、ギリシャはトルコに負けてしまいます。これがきっかけで王室への失望が強まり、1923年の国民投票で王制廃止が決定します。
しかし共和制はあいかわらず共和制派と王制派とのあいだの対立で政情不安が続きます。比例代表制による小党分立も政情不安の要因でした。また、1930年代世界中に巻き起こった大恐慌のため経済も大混乱し、混迷の度は深まっていきました。
そんななか、王制派のコンディリス将軍が政権を掌握し、王制を復活させます。とはいえ、一応はイギリスのような立憲君主制で、民主的な政治形態がとられることになりました。
しかし、コンディリス将軍はすぐ死んでしまい、またまた混乱。共産主義運動もこのころからはじまり、政情不安は増すばかり。そこで1936年、メタクサス将軍がクーデターを起こし、独裁政権をしきます。政党は解散させられ、反政府運動は激しく弾圧されました。
第2次軍事政権とその崩壊
その後、第2次世界大戦でドイツ・イタリアらに国土は占領され、解放後も共産主義勢力と政府の内乱が起こります。アメリカの援助により政府が勝利し、内戦は終了(くわしくはこちらをごらんください)。この間にメタクサス将軍とその後継者は死んで立憲君主制が復活します。政党・選挙は復活しますが、あいかわらず政局の混乱はつづいていました。
そんななか、1967年にパパドプロスを中心とした軍のクーデターが起こり、軍事政権が始まります。またまた政党は解散させられ、人権は制限される暗黒の時代へ。立憲君主制を支持する国王は亡命し、1973年、正式に共和制に移行します。
このとき、軍事政権に反対するものたちが集まってできた極左テロ集団が「11月17日」です。軍事政権崩壊後もテロ活動を続けました。今は撲滅宣言が出されましたが、今も五輪を標的としたテロが頻発しているところを見ると、残党はまだ生き残っているようです。
さて、軍事政権は1974年、キプロスに大規模な軍事介入を行います。エーゲ海に浮かぶキプロスはギリシャ系住民とトルコ系住民の間で内戦が起こっていたのですが、軍事政権はギリシャのキプロスでの影響力を保持するため介入に踏み切ったのです。
しかしトルコ軍もやってきて、介入は泥沼化します。腐敗し切っていた軍事政権に収拾能力はなく、国民の暴動も相次ぎあっけなく政権を投げ出して軍事政権は崩壊します。かわって民主派で亡命していた元首相カラマンリスが政権を握り、民主政治は復活しました。
カラマンリスはこのとき今の二大政党の一つ、保守派の新民主主義党(ND)を結成します。同時に左派のPASOKが野党第一党となり、二大政党の道を歩み始めます。
1981年の総選挙でPASOKがNDから政権を奪取し、はじめて平和的に安定した政権交代が行われました。これからあとは、先ほどもいったように、PASOKとNDの二大政党制が実現しています。
軍事政権を崩壊に追いやったキプロス問題とは
こんなふうに苦難を乗り越えて民主化をかちとったギリシャですが、それにしても軍事政権を崩壊に追い込んだキプロス問題も、ギリシャにとって重要な政治問題のようですね。次のページでは、そのキプロス問題について解説します。