【パレスチナ和平、はじまりと挫折】
1973年の第4次中東戦争で、イスラエルは思わぬ挫折を味わうことになります。アラブ側の石油産出国(サウジなど)が「イスラエル支援国には石油を売らない」と言い出した(石油戦略)ため、いままでのように先進国の全面的な支援が受けられなくなったのです。イスラエルは占領地の維持が精一杯の状況に追い込まれます。
この挫折をきっかけに、イスラエルは孤高の態度を改め、アラブ諸国との対決姿勢を徐々に変化させていきます。そして1979年アメリカ仲介のもと、イスラエルはエジプトと平和条約を結んで和解。占領地もパレスチナ人の多いガザ地区をのぞいてほぼ返還しました。
こうしてイスラエルの敵は80年代以降、アラブ諸国からパレスチナ=ゲリラとそれを支援する国へと変わっていきました。つまり具体的には1960年代結成されたアラファト議長をリーダーとするパレスチナ解放機構(PLO)と、これを支援するシリアが当面の敵となったわけです。
イスラエルは1982年、PLOの根拠地となっていたレバノンに侵攻。PLOの追放に成功します。このときベイルートのパレスチナ難民が大量虐殺され、イスラエルは国際的な非難をあびることとなります。
そして1990年代に入って湾岸戦争が起こると、先進国を中心として中東和平の必要性が改めて認識され、アメリカなどが仲介して中東諸国全体の本格的な和平交渉(中東和平会議)が始まりました。ここではじめてPLOが交渉に参加します。
イスラエルとPLOとの交渉は難航しましたが、両者とも和平の必要性を痛切に感じていたためかなんとか交渉は決着し、パレスチナ人によるガザ地区・ヨルダン川西岸地域の一部での暫定自治が実現することになります(オスロ合意)。パレスチナ国家樹立も、間もないことかと思われました。
ところがこれがかえってパレスチナ人によるゲリラ・テロ活動を活発化させたのですから皮肉なことです。つまり、限定的な自治に満足するアラファトらPLO主流派に反発する過激なグループが台頭し、自治反対・徹底抗戦をかかげてテロ活動を活発化させてしまうのです。
これを受けてイスラエルでも右派を中心とする和平反対派が台頭。イスラエル・パレスチナ双方ともに和平反対勢力が台頭してしまい、90年代後半に入ると和平交渉は大きく停滞してしまいます。
そんななか、昨年9月イスラエルの最大右派政党リクードのシャロン党首がエルサレム旧市街のイスラム地区を訪問。これに猛反発したパレスチナ人が蜂起、今にいたる泥沼の衝突が始まってしまったのです。
さらにこの衝突の「張本人」的存在であるシャロン氏が今年2月にイスラエルの首相に就任。強硬派の政権誕生によって、衝突はますますエスカレートしています。今月にはとうとう、テロ事件をきっかけにしてイスラエル軍による自治区への大規模な攻撃がはじまってしまいました。
泥沼化するイスラエル/パレスチナ情勢。数年前までは和平が進んでいた両者の関係が、なぜここまで悪化しているのか、次ページでもう少し詳しく考えていきます。