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自衛隊海外派遣の歴史と問題点(2ページ目)

対米同時テロへの報復活動に対し、日本は自衛隊をインド洋に派遣してアメリカ軍の後方支援を行おうとしています。自衛隊の海外派遣はどのようにして行われるのか、そしてその問題点とは。

執筆者:辻 雅之

【日本版「湾岸戦争後遺症」と自衛隊派遣の歴史】

よく、今回のテロに対する日本の対応を議論する際に、「湾岸の教訓を活かせ」「湾岸の二の舞いをするな」などといわれます。

これは、1991年の湾岸戦争の時、日本の多国籍軍への支援活動が遅れたため、アメリカなどからの強い批判を受けたことからくるものです。

このときの批判はそうとうなもので、「日本外交の敗北」とまでいわれ、政府に大きなショックを与えることになります。そしてこれをきっかけにして、自衛隊の「国際協力」がすすめられていくことになります。

ちなみに日本政府は湾岸戦争がひと段落ついた後、ペルシャ湾岸に自衛隊の掃海艇を派遣、機雷の撤去作業を行います。これが自衛隊の「海外派遣」第1号となりました。

いっぽう1991年までにまとめられたカンボジア和平交渉では、日本の果たす役割が大きく、和平後も日本がなんらかの平和維持活動を行うことが期待されました。1992年からカンボジアで国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の活動が始まると、日本はPKO協力法を作り、自衛隊をカンボジアに派遣しました。

このとき、のちに犠牲者が出たこともあって日本国内でさまざまな議論が巻き起こりましたが、その後のカンボジアの情勢がまずまず良好であったこともあって、自衛隊のPKO派遣に協力に反対する運動はあまりおこりませんでした。

そしてその後、モザンビーク(1993年)、ザイール(1994年)、ゴラン高原(1996年)にも自衛隊がPKO派遣されますが、とくに大きな反対運動はおきませんでした。

このことから、少なくとも政府サイドでは、「紛争の終わった地域での(←ここが重要)平和維持活動にたいする自衛隊派遣は、国民が認めている」という認識が定着しているようにみえます。

その後、1994年に北朝鮮とアメリカの間で核査察問題をめぐる激しい対立が、1996年には中国が台湾沖で大規模な軍事演習をするなどして、東アジアに緊張が高まるようになります。

そこで日本・アメリカ政府の間で、もし日本の周辺で「有事」、つまり武力紛争が起こったらどうするか、あらためて決めておくことになりました。いわゆる「新ガイドライン」の作成です(1997年)。

もともとガイドラインは1978年に作成されたもので、日本に直接攻撃があった時日米両国がどういう対応をとるかについて決めていたものです。

新ガイドラインでは当時の緊迫した情勢を受けて、日本が攻撃を受ける受けないに関わらず、日本に脅威を与える「周辺の事態」に関しても、日本がアメリカ軍に協力することが決められました。

この新ガイドラインを実行するため、前ページで解説した周辺事態法が「ガイドライン関連法」として制定されたわけです(1999年)。

このようにして、1990年代、湾岸戦争をそのきっかけに自衛隊の海外派遣がはじまり、その可能範囲も急速に拡大していったわけです。

2000年代も、はたして自衛隊の海外派遣はどんどんすすめられていくのでしょうか。また、そのメリット・デメリットは一体なんでしょうか。次ページで解説していきます。
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