この記事は2001年に作成されたものです。最新の派閥についての解説記事は「自民党派閥の基礎知識2006」をごらん下さい。
森首相の「退陣表明」をうけて、次の総理大臣を選ぶ動きが活発になってきました。ニュースでは特に「橋本派」「森派」といったような派閥の動きを活発に報じるようになっています。
ところでこの「派閥」というのはいったいなんなのでしょう。どこの職場にもたいていは派閥というものはあるようですが(?)、自民党の派閥はそういうものとは少し違うようです。
自由党と民主党が合体したから自民党、というのが党名の由来のとおり、自民党ははっきりいって寄り合い所帯です。最初からむかしの所帯の連中が集まった派閥がありました。
また、総理総裁を目指す有力政治家たちは、自分を頂点とする派閥をつくり、大きくしていくことで総裁選挙に勝とうとしました。そのため、派閥は彼らにはなくてはならないものとして定着して行きました。
派閥は、最初のうちはいいかげんなところもあって、二また三股かけてるようなひともいたようです。しかし、1970年代に入ると急速に組織化されて行きました。いわゆる「三角大福中」の時代です。
「三角大福中」とは総理総裁を争った三木・田中(角栄)・大平・福田・中曽根の5人のことです。彼らの抗争は熾烈を極めました。彼らはそのため、自分たちの派閥を強力に組織化していくのでした。
派閥のリーダーたちと議員の関係はまさに親分・子分の関係です。リーダーたちは議員たちに政治資金と大臣などのポストを分配します。これらは議員たちにとってのどから手が出るほど欲しいもの。
特に1990年代はじめまで、衆議院総選挙は中選挙区制といって、1選挙区から二人以上が当選することができました。自民党候補が2人立候補することはふつうでした。彼らは党本部からの支援よりも、ライバル候補の派閥のライバル派閥に属して、選挙資金などの応援を受ける必要があったのです。
こうして1980年代になると、派閥というのは自民党の重要な制度のようなものになって定着していったのです。
このような派閥政治には最初から激しい批判がありました。自民党には国民が選んだ国会議員が数百人もいるのに、実際には少数の派閥のリーダーたちによって政治が動いていくのですから、「密室政治」「国民不在」という批判を浴び続けたのです。
実際自民党の派閥は国民からの批判を受ける形で1957年、63年、94年と3回も「自主解散」しています。しかし、いつのまにか復活してきました。それだけ、自民党にとって派閥というのは「必要悪」なのかもしれません。
とはいえ、ここ最近になって自民党の派閥はその姿を大きくかえつつあるといえます。今とりざたされている総裁候補はいずれも派閥のナンバーワン、ボスではありません。1990年代以降、派閥のボスが総裁になったケースは6人中3人のみです(総裁になった時点で)。派閥をこえた若手議員の運動も活発です。
派閥は以前ほどの力を持たなくなったのでしょうか。その理由を、次のページで考えていきます。