口縄坂の上
「口縄坂」を探して住宅街を歩いていると、中年のご婦人がいたので、聞いてみた。すぐそこですよ、と指さしたほうに歩くと、口縄坂はあった。ちゃんと看板やら、碑などが建っている。織田作之助は『木の都』の中で、口縄坂についてこう語っている。
口繩(くちなは)とは大阪で蛇のことである。といへば、はや察せられるやうに、口繩坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。
なるほど、坂の上から見ると、蛇のようだ。といって左右にではなく、その起伏がうねうねと蛇のようなのである。
口縄坂の上から見たところ。坂の終わりは見えない。 |
写真を撮影しながらくだってみる。『木の都』に出てくる女学校、「夕陽丘高等女学校跡」という碑が坂の途中にあった。ここで、作品中の「私」はこう述懐する。
かつて中学生の私はこの禁断の校門を一度だけくぐつたことがある。当時夕陽丘女学校は籠球部を創設したといふので、私の中学校指導選手の派遣を依頼して来た。
とはいえ、「私」も籠球部へ籍を入れて四日目ということで、指導するに当たらず…というようなことを思い出す。そして、「私」はこの坂をのぼりながら、すでにその女学校も移転し、違う看板がかかっていた、というようなエピソードが綴られている。
多くの町の名前、商店が登場し、この作品は昔の大阪の町を知るのにはとてもよい。
長い石段の「口縄坂」
坂の途中の塀に「夕陽丘町1」と「下寺町二丁目1」という住居表示が並んでいる。途中で町名が変わるほど長い坂である。まだまだ坂の途中。 |
坂をおりると、大きな道路に出た。松屋町筋だ。最初はこのあたりにある天王寺七坂を巡る散歩というのを考えていたのだが、気が変わった。時刻はお昼時でお腹がすいてきた。前の日に食べた「自由軒」の名物カレーが再び食べたくなり、難波まで歩くことにした。
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