散歩/和む散歩ルート

中原中也、山頭火の足跡をたどる山口散歩(4ページ目)

湯田温泉という山口県の小さな町をスタートし、中原中也、種田山頭火の足跡をたどりながら足湯につかり、山口の市街地まで歩いた。そこは中世の大内文化を感じる道でもあった。

増田 剛己

執筆者:増田 剛己

散歩ガイド

旧街道を歩いてみる

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今風の寺院になった竜泉寺。
再び観光案内所まで戻って、今度は山頭火の庵があったという竜泉寺まで行くことにした。
と、竜泉寺へ行く道で、これは旧街道ではないかと感じた。
昔ながらのいい道である。車がすれ違うのは少し大変そうだが、昔にすれば太い道ではなかったろうか。
竜泉寺は山頭火の時代の面影は全く残ってはいなかった。今は近代的な寺に建て替えられている。
山頭火の「風来居」があったのはどのへんかしらとのぞいてみたが、よくわからなかった。
さらに旧街道を歩いていく。


昔を偲ぶ袖解橋(そでときばし)

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新山口駅に降り立つと、其中庵(ごちゅうあん)までの地図がある。
山口は小京都といわれるようになったのは、中世になって大内氏がこの地を治めるようになってからである。ここ、袖解橋はその名残りである。
瀬戸内海から山口に通じるこの街道は、御上使道(ごじょうしみち)と呼ばれ、多くの侍たちが通った。ここまでは、狩衣(かりぎぬ)、直垂(ひたたれ)といった衣装の袖をくくった旅装だったが、この橋までくると結んでいた袖を解いて、身づくろいをして山口に入ったそうだ。
なんだか、昔の様子のわかる橋の名前である。
ちなみにいまは橋はなく、川もあるのかどうかわからないような状態だ。


山口市街、そして山口駅へ

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日は暮れつつあり、急ぎ足で山口市内へ!
さらに袖解橋の近くに「井上馨候遭難の地」という碑があった。
幕末の長州藩は倒幕へ一枚岩というわけではなく、藩論も二転三転しながら激しい主導権争いが行われていた。そんななか、井上は反対派から闇討ちに遭い、瀕死の重傷を負うのである。ちょうど、山口藩庁から自宅へ帰る途中であった。
夜であった。高田公園の場所が自宅のあった場所である。妙に生々しいかんじがした。
井上馨は、九死に一生を得て、幕末は長州藩士として、維新後は明治政府で活躍することになる。
そんな歴史の街道を進むと日は暮れかかっている。
僕は急いで山口市街地へ向かった。商店街がアーケードになる。てっきり山口駅はそこからつながっていると思ったが、そうではなかった。駅は市街地から少し離れたところにある。ああ、なるほど昔ながらの町というのは、すでに町の形ができあがっていたから、新しくできた鉄道は離れた場所に作られたのだ。湯田温泉駅もそうであった。
そんなことを考えながら、この日の散歩を終えた。



<関連リンク>
山口線 - Wikipedia
中原中也記念館
種田山頭火 - Wikipedia
井上馨 - Wikipedia
湯田温泉(山口市)
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