日本画壇には多くの巨匠がいるが、天才と呼ばれる日本画家は少ない。どうやら天才という強い言葉を称されるには厳しい条件があるようだ。天賦の画才、俗っぽいほどの向上心、挫折、破綻、早世、そんな条件が過去の天才たちの生きざまから見えてくる。そんな条件を満たした日本画家はいたのだろうか。
日本美術院の黎明期、日本画の革新を目指す若者の中に天才と呼ぶにふさわしい日本画家がいた。西郷孤月(さいごう こげつ)と菱田春草(ひしだ しゅんそう)である。二人は共に信州に生まれ、共に画才に恵まれ革新的日本画を目指した。違っていたところと言えば、孤月の方がちょっと先に期待された事くらいである。
孤月は、横山大観、下村観山と同じく東京美術学校開校時の第一期生として入学。一年遅れて入ってきた春草を加えて、大観、観山、孤月、春草は初期日本美術院の四天王と呼ばれていた。後に大観や春草が確立する朦朧体と呼ばれる、線を排して光や空気を表現する手法にも孤月は特に熱心に取り組み、その画才は抜きんでていた。しかし、後世の日本画に大きな影響を与えた日本美術院の五浦派と呼ばれる画家たちの中に孤月の名はない。茨城県五浦で岡倉天心のもと、新しい日本画の創造に励んでいたのは、大観、観山、春草、そして木村武山である。孤月はどこに行ってしまったのか?
結局、孤月の人生を暗転させたのは時の日本画の大御所、橋本雅邦の娘との結婚だった。画才を見込まれ、将来を嘱望されながらの結婚は一年半あまりで破局した。孤月の放蕩が原因と言われる。一度乱れた歯車はその後ももとに戻ることはなかった。孤月は過去の天才奇才たちの道をなぞるかのように放浪と放蕩を繰り返し、やがて中央画壇から消えた。一方、五浦で研鑽を重ねていた春草は「落葉」「黒き猫」など名作を発表し、名声を高めていった。しかしその制作活動も病魔との戦いの中にあり、決して恵まれたものではなかった。
病身でありながら孤月の身を案じる春草だったが、すれ違っていくばかりの二人の間で、一瞬だけ時間が重なりあった時がある。春草がスケッチ旅行に出かけた際、行方知れずの孤月に偶然出くわしたのである。療養しながら描くことへの情熱にあふれる春草の前に現れたのは、女性と連れ立った放浪の身である孤月だった。
二人の生きざまを象徴するかのような再開の場面は、二度と繰り返されることはなかった。翌年、春草は病死し、その翌年、孤月は滞在中の台湾で発病し38年の生涯を終えた。皮肉にも運命は二人に同じような画才を与え、同じように志し半ばでその道を絶った。そして何の気まぐれか、まったく違う歴史の中にそれぞれの名前を刻み込んでいってしまった。
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