■「僕」の無名性、非特定性が生み出す「居心地の悪さ」。著者のクセ者ぶり、健在!
「違和感」の源泉としてのもっとも重要な要素は、おそらく主人公の「僕」にまつわる謎だろう。そもそも、僕が、なぜ、フララコ屋に居候することになったか、なぜにここまで金銭に執着しないでいられるのか、などの出自がまったく明かされていない。しかも、この謎は、物語が進むうえで解明もされず、ポンと作中に放置されたままなのである。
そう、登場人物を写真に撮ったとすると、中心にいるはずの「僕」の顔の部分が、ぼやけてしまっているのだ。文芸系のコミックなどでは、主要登場人物の顔をぼやけけさせるという手法は世沓変わるが、それを小説の世界で応用したとも言えるだろう。この効果は、あきらかに、著者がかなり意図的に仕組んだものだ。作中で夕子ちゃんが「僕」の出自について少女めいた推測をしたり、登場人物たちが「僕」の名前をずいぶん後になって知ったりすることでわかるように、著者は、「僕」の無名性、非特定性にこだわっている。そのことで、作品世界に、独特の奥行きを与えているのだ。
と、まあ、こんなこと、読む側として、意識するかしないかはまったく自由だし。しない人が多数派であればあるほど、著者としては「してやったり!」だろう。
著者は、クセ者である。嬉しいなぁ~。こういうクセ者の書き手が健在なことって・・・。
この本を買いたい!
そう、芥川賞作家なんですよね、長嶋さん。日本の文学界を代表するな賞に関する情報は「芥川賞・直木賞受賞作を読む」で
『長嶋有という作家の魅力を伝えるには、私、ほんとうに実力不足。だって、クセ者なんだもの。本当に。せめては、その人となりがなんとなくわかるページをご紹介。
「長嶋有公式サイト」では、ゲーム評論家・ブルボン小林としての活動もチェックできる。それにしても、長嶋さん、「自腹」好きっすね。
長嶋有さんの父上・康郎氏は、実は、こんな古道具屋を経営なさっています。「古道具・ニコニコ堂のページ」。当然、本作の設定にも何らかの影響があったはず。
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