■小説のリアリティーとは?世界への関わり方に対する問題意識に同時代性あり
率直に言って、この作品が、現在の大学生にとって、リアリティーのある物語であるかどうかという点に関しては、かなり疑問がある。ちなみに今の大学生って、麻雀ってします?もちろん、する人もいるでしょうけど。個人的には、学校の近所の雀荘にいけば必ずといっていいほど知った顔と遭遇し、大学の談話室で講義の間にも紙麻雀をしていたグループがあった、そんな大学生活を過ごした私にとっては、友達の家での「○○クンち麻雀」、とても懐かしかったが・・・。麻雀のことがわからなくても楽しめる(むしろ麻雀好きの人が読むと、麻雀シーンのディテールに?があるかも。私でもいくつか感じましたから)作品であるが、それを除いても、もしかすると、この作品のもつ空気感は、おそらくリアルではないのではないかと思う。極言するなら、「寓話」のテイストがあるのだ。
だが、それが、この著者の持ち味なのだ。寓話だからリアリティーがなくて、入り込めないという方はいるだろうし、それはそれでいいのだけど・・・
そもそも、小説のリアリティーとは何だろう?
他の作品を紹介した記事でも、このテーマに触れているのだが、私は、昨今の多くの読者を獲得している作品(小説に限らないのだけど)を読むにつけ、そのことを考えさせられてしまう。
自身の生活や嗜好と同じ地平にある世界を描いた作品のみがリアリティーのある作品なのだろうか?
あくまで私見ではあるが、私は「否」と(それなりの大声で)言いたい。
作品の中に「自分に似た人」「自分の隣にいる人」が発見できる作品を否定するのではない。そうではない作品にはリアリティーがないから共感できない、あるいは楽しめないとする意見に「否」なのだ。
リアリティーのある作品のみがいい作品かどうかということは、リアリティーとは、この時代に書かれるべきして書かれた作品であることだと思っている。いうなれば、同時代性である。
西嶋が懲りることなく臆すことなく憤り続けるアメリカのイラク侵攻の不条理や、クールな北村が珍しく熱くなる異質な人間に対する「良識ある人々」の排斥姿勢・・・現代日本社会のあり方を衝いたモティーフが登場するから、同時代性があるというのではない。
また、そのことに対して、登場人物を通じて語られる著者のスタンスに共鳴するというわけでもない。
世界や砂漠化する、あるいは砂漠化する世界――具体的に「こういう事象が起こっているから砂漠化」と規定するとすれば、「こういう事象」がどういう事象かは、個人によって認識の分かれるところだろう。西嶋のように、アメリカの姿勢とそれに追随する日本政府が「こういう事象」である人もいるだろうし、そうではない人もいるだろう。
だが、周辺が「砂漠化」していく、その砂漠の匂いとでもいうものを感じ取っている人は少なくないはずだ。本作は、その茫漠とした匂いを物語の形で体現している。さらには、その物語は、個人がその世界とどう関わりあっていくのかという点についての問題意識に貫かれている。私は、この意味において、同作は、今書かれるべきして書かれた作品であると思う。
本作は、おそらく80年代に大学生活を送った人間にとっては、間違いなく楽しい。しかし、そうでない人にも、ぜひ手にとっていただいて、何らかの形で、世界を見る(俯瞰であれ、接眼であれ)枠組みみたいなものを醸成していただければと願う。
この本を買いたい!
◆『陽気なギャングが地球を回る』が映画化されるんだそうです。うーむ、楽しみなような怖いような・・・その他、映像化作品の情報は、」「映像化原作本をチェック」で
■200年『オーデュポンの祈り』で新潮ミステリ倶楽部賞を受賞してデビューした伊坂幸太郎。聞きなれない賞だと思われるかもしれませんが、実は、この賞、日本推理サスペンス大賞→新潮ミステリ倶楽部賞→ホラーサスペンス大賞と変遷しているのです。日本推理サスペンス大賞時代には、宮部みゆき、高村薫という巨頭を輩出しております。伊坂さんは、実は、同賞の最後(2000年)の受賞者です
この賞の経歴、候補作をチェックするなら「ミステリの部屋」が便利。おお、『犯人の告ぐ』雫井さんも同賞出身なんですね!
『溺れる魚』『なぎら☆ツイスター』など、異色作でおなじみの戸梶圭太は、1998年に同賞受賞でデビュー。公式サイト「TOKA JUNGLE」では、映像関係の活動もチェックできます。
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