『グロテスク』『残虐記』に続き、醜悪な人間を、現実を描ききる! |
『アイム・ソーリー・ママ』
・桐野夏生(著)
・価格:1470円(税込)
この本を買いたい!
■娼館に捨てられた独りの幼児。中年になった彼女が行くところ、盗みが、裏切りが、そして、殺人が・・・
『柔らかい頬』で直木賞を受賞して以来、賞づいている著者だが、この最新作を読むと、あくまで彼女は、社会的評価ではなく、自身の信念に殉じる孤高の存在なのだと思わされる。
『グロテスク』『残虐記』は、現実に起こった事件を思わせる設定でも話題を呼んだが、それに続く本作は、単独の事件そのものではなく、人間そのものの醜悪さ、現実そのものの醜悪さに、斬りこんでいくのだが、瞠目すべきは、その筆致の容赦なさである。
テーマや設定そのものは残酷でスキャンダラスだが、結末は、一種の道徳律のようなものに落ちつく、いわゆる「いい話」にはけっしてしないのである(そういえば、「ミロ」シリーズも、あんなことになるなんて・・・)。
まずは、ストーリーをご紹介することにしよう。
父母の庇護を受けられない子どもたちが集う児童福祉施設「星の子学園」の保育士であった美佐江と同学園の生徒であった稔。親子ほど年の離れた夫婦は、ある日、偶然、稔と同じく星の子学園の生徒であった松島アイ子と再会する。そして、その夜、炎に包まれて非業の死を遂げる。
殺したのは、アイ子。彼女にとって、その殺人は、始めてでもなければ終わりでもなかった。
娼館に捨てられ、そこが廃業したことで学園に引き取られた彼女は、学園を出て以後、ある時はホテルのメイドとして、ある時は娼婦として、ある時は焼肉屋の店員として、転々と生き場所を変えてきた。そして、その先々で、奪い、盗み、裏切り、殺してきた。ただ、そうしたいと思った、その理由だけで・・・。
美佐江夫婦を殺した後、当然のごとくその場を逃れた彼女は、かつて娼館の花形娼婦であり、自身の娼婦時代の雇用主でもあった女性のところに舞い込み、そこでも殺人を犯す。さらに、彼女が目をつけたのは・・・。
■根拠なく悪を為し、ゆえに捕まらないアイ子は、最悪にして最強の「怪物」!そんな彼女の存在が、「絵空事」ではない現実こそ・・・
悪役を主人公にしたピカレスク小説は数多い。だが、この作品のアイ子ほど、「共感」できない登場人物は、そういないと思う。
人間が悪を為すには、なんらかの動機があり、背景があり、事情がある――これは、小説の世界のみならず、多くの者のとって常識だと思う。
だが、アイ子の「悪」には、筋道だった動機もなければ、掘り下げるべき背景もない。
確かに、父も母も知らない彼女は、きわだって不幸な出自の持ち主であり、いつもギリギリのところで生きている。だが、彼女の犯罪は、その不幸をなんらかの形で埋め合わせるために為されるものでもなければ、生きるための究極の選択なのでもない。
そして、そこには、欲望もない。彼女は、悪を為すことによって、物質的に豊かになりたいのでもなく、精神的に充足したいからでもなくないのだ。彼女は、ただその場その場で、自分にないものを持っている人間が癪だから、盗むのであり、奪うのであり、自分の視界にその人物が入ってくるのが目障りだから、殺すのである。
彼女は、どんなエクスキューズも寄せ付けない、最悪な「悪役」である。
(彼女が、絶世の美女、となると、また話は違うのだろうが、彼女は、もっちゃりした小太りの中年オンナなんだな、これが)
さらに、ぞっとさせられることは、そんな根拠のない、行き当たりの犯罪だからこそ、捕まらないことである。彼女の犯罪は、衝動的で隠蔽のための緻密なトリックなど何も労さない。だが、彼女の犯罪は、あくまで「点」であり、「線」であるため、トレースが効かないのだ。
彼女は、どんな緻密な推理もあざ笑う、最強の「悪役」である。
さらに、さらに、ぞっとさせられることは、そんな彼女を主人公にし、いわゆる犯罪小説の既成概念をすべてとっぱらったこの小説が、必ずしも、現実と完全に乖離した「異世界」を描く一種の「ファンタジー」には思えないことだ。
『グロテスク』『残虐記』と、読者に対する一切の媚を売らず、醜悪な現実を描いていた著者だが、この作品は、もっとも仮借がない。だが、それにも関わらず、この作品の読後感は、けっして悪くない。
むしろ・・・