祖母を介護する「俺」の独白を独特の文体で描き、芥川賞受賞! |
『介護入門』
・モブノリオ(著)
・価格:1050円(税込)
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■「自宅介護」のステレオタイプのイメージを否定。個人的な行為としての「介護」を描く
頭蓋骨を陥没骨折した祖母。自称ミュージシャンの「俺」は、その日から「無理」を生きる決意をする。死の淵から生還した祖母を自宅に連れ帰っての介護の日々。何もしようとしない親戚や、愚かな世間に毒づきながら、祖母の身体を吹くタオルの温度に気を配る「俺」。そして、それ以外の時間は、魂の抜け殻をもてあましながら大麻にふける・・・「YO、朋輩」と語りかける疾走感のある文体で、祖母との時間を綴った芥川賞受賞作。
本作のあらましを聞いたとき、私は、本書が、肉親を自宅介護するという社会的に賛美されがちな行為と、反社会的だとみなされる大麻吸引という対極にある行為の狭間で揺れる心情を描いたとものだと予測していた。
だが、実際に読んでみて、この予測の「前提」そのものが少し違っているのではないかと思うようになった。
まず、著者は、祖母を介護する行為を社会的な価値観の元には置いていない。自宅介護に“感動”“献身”あるいは“悲惨”というステレオタイプのイメージを安易に付加するメディアを痛烈に批判すると同時に、祖母の尿パッドを交換したり、ベッドを調整したりする様を執拗に描く。ここで描かれるのは、著者=「俺」の個人的行為としての介護であり、そこに過度な一般化の入り込む余地は、ほとんどないように思える。
■描かれているのは、相対化された状況ではなく、あくまで個人的状況
それと同じように、著者は、大麻吸引という行為も、社会的価値観の元には置いていない。もっと言うなら「俺」は、大麻を吸うという行為をすることに社会的不正義を犯しているという罪悪感を覚えてはいないのだ。罪悪感を覚えない、ということ自体に、怒りを感じる読者もいるだろう。もっともだとも思うのだが、私は、そういう論議は、別のところでやっていただくことにしたい。
著者は、書く。
「知らず知らずにのうちに、ばあちゃんの世話だけを己の杖にして、そこにしがみつくことで生きてきた。それ以外の時間、俺は疲弊した俺の抜け殻を持て余して死んでいる。死んでいる俺を忘れるためにか、死んでいることをより生々しい色で知るためにか、夜な夜なタールでべとつくパイプに大麻を燻らせる」
大麻吸引が社会的に認められるべきことかどうかという論議は別にして、本作に描かれているのは、なんらかの「媒介」がなければ、現実が、現実としてとらえることがかなわない(これもあくまで、個人的なことだけど)「状況」なのだと私は思う。
そんな状況で、発せられる言葉、それが、本作の言葉なのだと思う。
言葉といえば、本作を特徴付けるものとして、「ラップ調の饒舌体」と称さされる文体がある。その独自性を評価する声があった一方で、「目新しいものではない」という声もあったが・・・