■懐かしくも不思議な「異世界」に流れる「時間」に身をゆだねる贅沢を!
人ならぬものと共存して人が生きている空間と時間。懐かしくて
庭の池の端で、土色のてろてろ光る皮のようなものを拾い、いぶかしがる「私」に隣の夫人は、自信満々に、河童の抜け殻だと答え、なぜそんなことを知っているのかと問うと、
「一目見ればわかります」・・・。
そして、亡き友が掛け軸から抜け出して会いに来ると聞かされたダァリヤの君は・・・
「そういう土地柄なのですね」――
そう、この家と町は、前回紹介した、『ブラフマンの埋葬』」の村と同様、彼岸と此岸の間に横たわる回廊として描かれているように思える。主人公も、文明の進歩とやらが急速に進む此岸より彼岸に傾斜している人物であるかのように思える。
そして、そこをたずねてくるのは、ある場所として書かれているのだ。そして、そこを訪れては去っていくのは、彼岸の住人となったもの、四季折々の自然の「気」を映した人ならぬもの――そういう人ならぬものとと人がごく普通に共存していた、あったかもしれない、なかったかもしれない「時代」「空間」への憧憬が全編に滲んでいるようだ。
いや、理屈をつけるのは、よそう。
この本は、何かを声高に主張するような、そんな本ではない。読むものは、ただ、懐かしくあり、不思議でもある「異世界」にその身を置いて、主人公と亡友、近隣の人々や愛嬌ある妖かしたちとの淡々として伸びやかな触れ合いを楽しめばいいのだ。
物語を読む楽しみというのは、その物語世界の中だけを流れている「時間」にひたることだと思う。そして、よい物語には、そういう「時間」が必ず流れているものだとも思う。
著者が作り出した、「時間」に、ぜひ、その身をゆだねてほしい。
ちなみに、同作は、著者の最新作である『村田エフェンディ滞士録』と基本設定を共有しており、互いに互いの主人公がちらりと登場する。こちらのほうもおすすめ。ぜひ、二作ご一緒に読んでいただきたい。
この本を買いたい!
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