■静かに、普通に、狂う女性たち。その狂気の素は多くの女性たちが・・・
同作はじめ江國作品の中に流れる時間は、確かで、静かで、なだらかである。登場人物たちは、それぞれに、旧友と会い、姪の習い事についていき、昔の男とおでんを食べ、家の窓から近所の様子を眺め、飼っている犬のケアをしている。しかし、彼女たちは、絶望に揺れ、哀しみに溺れ、深い喪失感を抱いている。そして、それらの感情は、ふとした瞬間に、固く締めたはずの心の扉の隙間からこぼれだすのだ。
その感情の流出は、けっして派手なものではない。他人が見たら気づきもしない小さくてささやかなものだ。
だが、その瞬間、彼女たちは、確かに、日常を逸脱していく。そして、次の瞬間には、やすやすと日常に戻ってきたりする。
そう、彼女たちは、静かに、普通に、狂っているのである。
だから、怖い。不気味なのである。
この怖さ、不気味さ、実は、身に覚えのある、近しい怖さなのだ。少なくとも、女性にとっては、いや、江國作品を愛する女性たちにとっては。
おそらく、彼女たちは、狂気の素を飼いながら、日常を生きているのではないだろうか。
江國作品が、多くの女性たちに支持されるのは、けっして、美しくて透明で、甘美なだけだからではないはずだ。
さて、いつも思うのだが、男性は、彼女の作品をどう読むのだろうか。私が男性だったら、この作品集を読むと、「女の怖さ」を思い知ると思う。
だって、夫との離婚を考えながら、夫の母と一泊旅行をして、温泉でごはんを食べている女(『洋一さん』姪っ子とピーチメルバを食べながら、男と別れた哀しみを反芻し、「自分の墓碑銘を考えている女(表題作)などなど、これって、設定だけで、かなり怖くありません?
江國香織の描く女性は、たとえば、男性が心変わりをしても、直接的な復讐行為には出ない。出ないが、絶対、忘れない。何があっても、たぶん、忘れない。
こういう女性こそ、男性にとって、本当の「悪女」ではないだろうか。
もしかすると、ほら、今、あなたの隣にいる女性も・・・
この本を買いたい!
江國香織が、あのマドンナが書いた童話を翻訳!詳しくは「イングリッシュ・ローズイズ」で
※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。