■「人道的」な法が社会に与えた悪影響、軍人皇帝に対するスタンス・・・独自の視点で、「国家の危機」を分析
「ローマがローマでなくなる」--その最初にして最大の契機として、著者が上げているのが、三世紀前半の治世を行ったカラカラが発令した「アントニヌス勅令」だ。
この勅令は、いわゆる市民権法であり、人種も民族も関係なく、帝国内に住む自由な身の人々全員にもれなくローマ市民権を与えるという、古代では超・特殊な法令であり、人道的見地から見るならば、「画期的」と評されるものである。
しかし、著者は、その立場には立たない。この法令は、帝国を特色づけてきたことのひとつである「ローマ市民」と「属州民」の差をなくすものであり、そのことが、経ローマの政治・経済・国防・社会構造などにさざまな影響を与え、そのベクトルは、結果として、ネガティブな方に向いたとする。
詳しい論説については、私などが要約するより、ぜひとも本書をお読みいただくべきだと思うので、ここでは、著者が引用したユリウス・カエサルの次の言葉を挙げるにとどめたい。
「どんなに悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によるものであった」――
著者の筆は、カラカラ帝、マクリヌス帝、ついで野心的な女性たちの後ろ盾によって帝位についたセヴェルス帝血縁者による皇帝たちの治世へ、そして、アレクサンデル・セヴェルス帝がゲルマン人との闘いの前線で兵士たちに殺されたことから始まる「軍人皇帝」たちが支配者となった世紀後半へと、進んでいく。
ちなみに、兵士のストライキに対するアレクサンデル・セヴェルス帝とユリウス・カエサルの対処の比較についての記述は、人々のモティベーションをコントロールする要諦とはいかなるものかを考える上でとても興味深い。
それはさておき、「軍人支配」に関する著者のスタンスも、特筆すべきものであると思う。
彼女は、軍人皇帝の輩出は、三世紀という時代の要請にこたえた「現象」のひとつだとし、軍人皇帝であったというだけで非難するのは、シビリアン・コントロールという現代の概念で鹿児までを規定しようとするアレルギーの一種だと言う。
西からは、総蛮族化したゲルマン民族の脅威、アレクサンダー大王に征服される以前のペルシア再興を宣言する新興国家ササン朝ペルシアに新興に晒され、さらには、スタグフレーションや社会構造の変化といった内なる課題を抱かえていた三世紀ローマの「国の形」は、「リーダーが軍人か否か」ということのみに囚われていたのでは、まったく見えてこないだろうと思う。
もちろん、著者は、国家のリーダーが軍人出身であるがゆえのマイナス面がなかったとするのではない。そのマイナス面が、ローマの迷走の要因になったことを認め、その点についても、客観的に記述している。
だが、読み進むにつれ、そのマイナス面は、ミリタリーという皇帝の出自そのものあるのでなく、その出自ゆえのシビリアンを代表する元老院との関係性の混乱と迷走にあることを深く納得させられる。
現代に視点を転じると、国としての防衛はどうあるべきかという命題について、真剣な議論を避けつづけてきたわが国も、そこから避けて通れない事態が出現している。
もちろん、著者は、日本を取り巻く情勢が、三世紀ローマとイコールであるなどとは一言も言っていない。しかし、その記述すべてにおいて、歴史を楽しむというスタンスを堅持しながらも、同時に現代・日本に対する視点がある。彼女の著作が、支持され続ける最大の理由は、そこにあるのではないだろうか。
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