■異常であることや犯罪に「原因」を求めない。新しい視座で描かれたミステリ
「僕」と「森野」は、連作全編を通して、傍観者であり、目撃者であり、解決者であり、被害者であり、そして、加害者でもある。特に、「犯罪者に親しみを感じる」という設定の「僕」に付加された役どころは複雑で、一作一作、彼がどの役割を果たしているのか、最後の最後まで明瞭にならない。それ自体がミステリなのだ。
誰しもが被害者になり加害者になりえるという社会を映していると言うこともできるだろう。だが、何より、こういう複層的な設計を短編の中でやってしまう著者の凡庸ならざる手腕に驚異を感じずにはいられない。
さらにこの著者の特異なのは、「異常者」に対して極めてニュートラルな視座を保っていることである。
「僕」「森野」、登場する犯罪者たちの行為は、確かに「普通」の則を踏み越えている。しかし、彼らは、けっしてモンスターのようにも扱われていないし、かといって、ごく普通の一般人が何かの拍子に一線を踏み越えたかのようにも扱われていない。幼いころのトラウマによって犯罪者になった非業の人でもない。
彼らは、ありのまま、そのままなのだ。
「透明な存在」――読んでいると、あの事件で有名になった一文が浮かんでくる。
犯罪には何か「原因」がある、もしそれが見つからないのなら、犯人は、異世界からの訪問者だ――既存の多くのミステリがそのことを前提としているように思える。そういう意味では、本作は、まったく新しいミステリだ。
あの事件がそうだったように、何か異常な犯罪が起ると、良識ある社会は犯行の原因を生い立ちや家族関係に求めたがる。もしあなたが、繰り返されるそんな風潮にを何か違和感を感じる人ならば、この連作集は、きっと刺さる。ぜひご一読いただきたい。
この本を買いたい!
本作が受賞した「本格ミステリ大賞」のことを知りたいなら「本格ミステリ作家クラブのページ」へ。
※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。