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明治天皇制はなぜ崩壊したのか(3ページ目)

伊藤博文が渾身あげて築き、磐石に見えた明治天皇制は、やがて破局を迎えます。どこに問題があったのでしょう。明治憲法制定に大きく関わったひとりの人物に注目します。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【天皇を「道具扱い」していた新政府幹部、反発する井上毅】
2ページ目 【明治天皇制に影響を与えた井上毅の天皇に対する考え】
3ページ目 【天皇を支えるスーパーパワーを必要とした明治天皇制の弱点】

【天皇を支えるスーパーパワーを必要とした明治天皇制の弱点】

明治憲法は「軍部の独立」を許す体制だった

明治憲法最大の欠陥は、「軍部を内閣が統制できない」というところにありました。

明治憲法で、天皇は国政のすべての権限を与えられました。立法、行政、司法はもちろんのこと、軍隊を率いる「統帥(とうすい)」も、天皇の権利とされました。

天皇は日本の「元首以上の地位」、精神のよりどころ……これが明治天皇制でした。そんな天皇が一切の国務をとりしきるのが、このシステムの建て前だったのです。

しかし、近代日本で天皇がすべてのことを事細かに決定することはありませんでした。重要事項についてはほとんどなく、天皇は政治の一線から一歩引いていた存在でした。天皇に政治的責任を負わせない配慮も、そこにはありました。

こうしたなか、軍部は次第に独立性を主張し、やがて本当に単独行動に走ることになります。こうしたことを、軍部は「統帥権の独立」をたてに正当化しました。天皇陛下の軍隊は、ほかのどこからも指示は受けない、ということでした。

こうして昭和初期の満州事変をきっかけに、軍部をコントロールできるものはいなくなり、日本は戦争へと突き進んでいくのです。

「スーパーパワー」を必要とした明治天皇制

しかし明治後半の日本は安定していました。伊藤博文と、彼のライバルに成長した軍のトップ・山県有朋というふたりのスーパーパワーが、国の隅々までにらみを利かせていたためです。

日清戦争では伊藤と山県が連携して指揮をとり、日露戦争では山県の後継者・桂太郎が伊藤・山県の後見のもと、一元した指揮をとって、いずれも勝利をおさめました。

しかし……逆にいうと、こうした巨大な権力者つまりスーパーパワーがいなければ、明治天皇制は空中分解してしまうことも意味しています。このことに、伊藤も山県も、気付いていたのでしょうか。

もちろん、伊藤は西園寺公望を、山県は桂を、次の世代のスーパーパワーとして養成しようとしました。しかし、それは失敗に終わるのです。

公家階級出身の西園寺は迫力不足でした。のちに「最後の元老」とよばれ、権力をふるっていたかのように思っている人もいるでしょうが、晩年の西園寺が口にするのは、自分の思うようにならない日本政治へのいらだちばかりでした。

桂は、第1次護憲運動のあと急死。そのあとを担うと考えられた寺内正毅も、「米騒動」を乗り切ることができずダウン。軍・政両方ににらみの効く「第2世代」は、育たずじまいでした。

原敬という「スーパーパワー」の可能性

東京駅
写真は東京駅。ここで原はテロに倒れ、期待のスーパーパワーは消えた。(photo(c)東京発フリー写真素材集
いや、ひとり可能性がありました。日本で本格的な政党内閣をはじめて作った立憲政友会(伊藤が初代総裁)の3代目総裁、原敬でした。

原は山県に対抗して薩摩閥に接近、内務大臣になって鉄道敷設に尽力します。これはいまでいう「利益誘導型政治」の始まりでした。「我田引水」ならぬ「我田引鉄」と批判されましたが、原はなりふりかまわず政友会の党勢拡大に務めます。

こうした手法で政界のトップに上り詰めていった原は、山県にとって最大の敵でしたが、寺内内閣が米騒動で倒れたとき、山県は原に政権を託すよりほかなしとしたのです。そこまで、原の権力は急激に増大していました。

しかし、権力を握ると原は、次第に山県に接近していきます。

原は山県が警戒した普通選挙制(社会主義者の台頭を恐れていた)を時期が早いと取り入れず、制限を緩和した選挙法改正を実施。

そこで普通選挙を要求する野党と労働組合に対して、衆議院解散を断行。政友会は過半数を維持するだけでなく、議席を伸ばしました。

そして陸軍が渋っていたシベリア出兵(ソ連への介入戦争のため)の撤退を敢行。軍にもその力が及びはじめました。

そして宮中で深刻化する大正天皇の重病問題にも手を入れ、手際よく皇太子(のちの昭和天皇)を摂政にする手はずを整え、皇室の威厳を無傷で保ちました。

こうして議会だけでなく軍・宮中においても原の権力が広がりはじめると、山県は待望だったスーパーパワーの誕生を原に見いだし、しだいに山県も原に接近しはじめるのでした。

しかし、原は暗殺されます。

明治天皇制の空中分解

皇居
昭和天皇は孤独な天皇だったのだろうか……明治天皇に比べ有能な政治家たちに恵まれなかったことは確かだろう
原暗殺を知った山県は憂鬱(ゆううつ)な気分に落ち込み、その後もかえすがえす原の話を。原が死んだのは残念だ、ということを連発したといいます。山県もその翌年、亡くなりました。スーパーパワーは、日本から消えました。

可能性はまだありました。陸軍トップでありながら政友会の総裁として政権を持った田中義一は、張作霖(中国東北地方の軍閥)殺害事件にからみ、昭和天皇の叱責をうけ、たちまち意気消沈、政権は崩壊、田中もほどなく亡くなります。

こうして、軍にも政党にも大きな影響力を持ちうる政治家は、1人もいなくなります。

2・26事件が起こったとき、決起した青年将校たちの意に反して、昭和天皇は「わたしの股肱(ここう)の臣(厚く信頼をおいている臣下)を殺すとは何ごとか」と激怒しました。

その後登場した近衛文麿は大衆向けの軍部によるあやつり人形と貸し、日中戦争が勃発、そして太平洋戦争へと移っていきます。

この太平洋戦争が、最後のスーパーパワー、すなわち昭和天皇の決断でようやく終戦をむかえることができたところに、明治天皇制の矛盾と悲劇をみてとることができるでしょう。

「明治天皇制はなぜ崩壊したのか」についての参考書籍・資料はこちらをごらんください。

▼こちらもご参照下さい。
大人のための教科書 政治の超基礎講座

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