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自民党の歴史 派閥=族システムの完成(2ページ目)

80年総選挙の後、派閥抗争の荒波はいったん去り、事実上の田中支配のもとで自民党は永久政権的安定期に入ります。そこでシステム化された派閥、そして族議員とは。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【鈴木首相の「和の政治」と党内融和、そして田中派の膨張】
2ページ目 【自民党の「永久政権化」と「派閥=族議員」システム】
3ページ目 【「仕事師内閣」中曽根政権の誕生と田中の大きな影】

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【自民党の「永久政権化」と「派閥=族議員」システム】

「中選挙区制」と自民党の選挙体制

戦後の衆議院選挙は、1993年総選挙までほぼ「中選挙区制」をとっていました。今の「小選挙区制」と違い、ひとつの選挙区で複数(選挙区有権者数によって2~5名)が当選する仕組みだったのです。

たとえば当選2人区、あるいは3人区だと、自民党は2人の当選をもくろむでしょう。というわけで、2人の自民党候補者が1つの選挙区でともに戦うことになります。

しかし、選挙は水もの。足をすくわれて、野党候補者に負け、落選する、とも限りませんし、そういったことは多々ありました。

こうした場合、たとえば野党、自民党、自民党と立候補した2人区の場合、勢力が3者拮抗すると、自民党候補にとってはもう1人の自民党候補も野党候補と同列の「ライバル」です。なんとか資金を得て、彼よりも選挙を有利に進めたいと願います。

しかし、自民党は表向きどうしても、公認した2人を平等にしか応援できません。いくら党に応援を頼んでも、結果はむなしいのです。

党ではなく、「派閥」に支援を求めざるを得なかった政治家たち

そこで、この候補者は派閥に頼らざるを得なくなるでしょう。

派閥もまた、選挙によって自分の勢力を増やそうとしています。ですから、候補者は、そんな派閥に入って、自分を応援してもらおうとするわけです。それは派閥の勢力拡張にもつながるわけですから。

こうして派閥は自民党の候補者にとって欠かせないものになっていったわけです(一説にはそもそも自民党の公認を得るためにも、派閥に入る必要性が生じていたという話もあります)。

……ここで、田中派が膨張していった理由がわかります。なにせ自民党で一番集金能力を持っていたのが田中。もともと実業家としてそのキャリアをはじめた田中は、自分のファミリー企業から上がる収益を使い、派閥のメンバーに潤沢な資金を配分していたわけです。

このようにして田中は自派の勢力を拡大することで、キングメーカーとしての地位を不動のものにし、「闇将軍」として君臨するのでした。

自民党の「永久政権化」と「族議員」システムの確立

このような派閥政治が可能であった背景には、自民党の「永久政権化」があったことも否定できません。

自民党に取って代わる存在がいたなら、自民党はこうも派閥政治という、ちょっと緊張感のない(政権交代など考えず派閥政治に専念するような)政治体制はとってなかったかもしれません。

この「自民党の永久政権化」が生み出したもう1つのものが、「族議員」というシステムです。

「族議員」とは、ある政治利害(たとえば教育、郵政、道路、公共事業など……)について関心をもち、そして実際にそのために動く政治家たちのことです。

彼らはその利害と関係のある官僚たち(たとえば道路族なら国土交通省、むかしなら建設省)と結びつき、官僚たちの目標とする政策を推進する代わり、利益を獲得しようとします(たとえば自分の選挙区に高速道路を作り、集票能力を高めようとする)。

このシステムも、自民党が「永久政権」と考えられているから成り立つ構造です。政権交代がしばしば起こるようなら、官僚たちも自民党の議員だけと結びつくことはなかったでしょう。

さらに、この関係に、利害のある企業が割って入る(政治家に資金提供する代わり、仕事の受注をうけるよう便宜を図ってもらうなど)などとなり、「政・官・財」の「トライアングル」が、形成されるようになるのでした。

もっとも、族議員といってもその形態はさまざまでした。官僚の政策を守って利益を得ようとする「番犬型」、官僚に圧力をかけて利益を引き出す「猟犬型」など(猪口孝・岩井奉信『「族議員」の研究』)。

なかには、その政策に関心があるだけで、利益獲得には興味のない「族」もいたことはいました。彼らは、国民の関心の高いテーマにおいては「政策通」として一目おかれることはありましたが、そうでなければ、80年代を通して、集票能力を高めることはできませんでした。

いずれにせよ、70年代までの長期低落や派閥抗争を乗り切り、自民党が「永久政権化」していった背景には、こうした「派閥=族」体制の確立による産・官・そして民の統合への「成功」があげられることでしょう。

突然の鈴木首相退陣=ポスト鈴木争いへ

さて、歴史の物語に戻ります。とにかく福田が黙認し、闇将軍田中が推していた鈴木政権の基盤は強いものがありました。しかし、鈴木の政治的能力は、やはり歴代のそれに比べ一枚落ちていたといわざるを得ません。

それが露呈したのが「日米同盟発言」事件でした。

日米首脳会談で、共同声明の中に盛り込まれた「日米同盟」という言葉の意味について、鈴木は「軍事的な意味はない」と発言します。しかし、安保条約上、どうみても「?」のつく解釈であり、党内の反発を招き、伊藤正義外務大臣は抗議の意味で辞職します。

(ちなみに鈴木の政治家のキャリアは社会党から始まっています。鈴木のハト派的思想が、このような騒動をもたらしたのかも知れません。)

また、石油ショックをうけて悪化した財政の再建問題も難航しました。当初「増税なき財政再建」を唱えていた鈴木も、やがて厳しい財政事情から増税を考えざるを得なくなります。

しかし財界が猛反発。財界は一層の予算削減を求めます。……鈴木政権は、たしかに「党内融和」をもたらしました。しかし、それ以上のことはできない政権でした。

結局82年、鈴木は突如、次回総裁選不出馬を表明。自民党内は一気に、ポスト鈴木に向けて動き始めることになるのでした。

◎自民党の永久政権によって生まれていく官僚・財界との癒着の構図……


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