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自民党の歴史 吉田・鳩山5年戦争(2ページ目)

今年で結党50年を迎える自由民主党の歴史を振り返るシリーズ第1回目。今回は自由民主党ができるまでを見ていきます。ワンマン宰相吉田と政党政治家のドン鳩山の激しい駆け引きが繰り広げられたのでした……

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【「公職追放」からすべては始まった……吉田・鳩山抗争の開始】
2ページ目 【追い詰められてもワンマン発揮した吉田……しかしそれがあだに】
3ページ目 【混迷と迷走……そして意外な形で決着した「自由民主党・初代総裁」】

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【追い詰められてもワンマン発揮した吉田……しかしそれがあだに】

策士・三木武吉の登場と吉田系議員の分裂

吉田は民同派締め出しに動きますが、民同派の反発は激しく、おりからの池田通産相失言(中小企業の経営者が死んでもやむをえないというもの)により野党から提出された池田通産相不信任案が一部民同派の欠席によって通過(池田は辞任)。

さらに、補正予算の採決を前に勢いづく民同派は、河野・石橋除名の取り消しと林幹事長更迭を要求。吉田側近と民同派7名の会合がもたれます。

民同派の長老格三木武吉の「ケンカをしにきた」という迫力におされた吉田系は、翌日の議員総会で河野・石橋の復党を決定。年を越して幹事長は「吉田学校」の佐藤になったものの、総務会長は三木に決定。

この間、吉田系のベテラン議員として活躍してきた広川弘禅農相は、吉田が広川よりも追放解除で自由党入りした緒方竹虎(元朝日新聞主筆、小磯・東久邇宮内閣で入閣)を後継として重用し始めたことに反発、徐々に吉田と距離を置き、やがて離反するようになります。

「バカヤロー解散」と吉田・重光の「つかの間の」提携

おりしもそんな不穏な時期、衆議院予算委員会で吉田は右派社会党幹部・西村栄一の質問に対し「バカヤロー」と暴言、前代未聞の内閣総理大臣懲罰動議が可決。

このとき民同派とともに広川派が欠席したため、いよいよ吉田は広川を罷免して周りから広川派を一掃。鳩山系に加えて広川派が敵に廻ることになってしまいます。

そして河野・石橋を加えた民同派は自由党を脱党し「分派自由党」を結成。広川派も合流、鳩山を擁立した「鳩山自由党」へ。内閣不信任案は可決され、いわゆる「バカヤロー解散」、総選挙へと進みます。

総選挙によって過半数を割った自由党は改進党との連立を模索しますが不調に終わり、結果首相指名の決選投票で社会党が改進党重光に票を投じなかったためかろうじて吉田に首相指名。単独少数内閣となってしまいます。

吉田政権はなおも改進党との提携を模索。その結果、吉田・重光会談の実現により、実行されたのが保安隊から自衛隊への改組と防衛力強化でした(それまで吉田は一貫して「軽武装論」だった)。そして重光は、ひそかに吉田後継を期待するようになります。

造船疑獄とワンマン批判で窮地に陥る吉田政権

この「重光後継」の動きに危機感を感じた鳩山自由党は、鳩山のスポンサー的存在だった石橋正二郎(ブリヂストン創業者)の意向もあり、54年末に自由党に復党。

復党によってポスト吉田の資格を確保しようとしたわけですが、ともあれこれにより、自由党の分裂は、ひとまず収束するかに見えました(三木・河野は日本自由党を結成して復党せず)。

しかし、朝鮮戦争特需の反動不況のなか、造船業界が補助金交付のため大量のわいろを送っていたという「造船疑獄」が明るみになります。

贈賄側の産業界側が次々に逮捕され、検察は佐藤幹事長の逮捕許諾請求を決定。しかし、犬養健法相(犬養毅元首相の子)が戦後唯一の「指揮権」を発動し佐藤逮捕を回避(犬養は翌日辞任)。吉田政権への国会内外からの批判はさらに高まります。

それでもなお、吉田政権は批判の強い警察法改正(アメリカ流の地方自治体主導警察を、統一的な現在の組織に改めたもの)、MSA協定(防衛力の増強を日本がアメリカに約束したものなどを含む日米協定)承認の強行を実行(乱闘国会となり、はじめて国会議事堂に警官隊導入)。

「講和の立役者」から「ワンマン独裁」へと評価ががらっと変わった吉田少数政権に対し、重光改進党は、いよいよ吉田を見限ることになります。

鳩山民主党の発足、そしてワンマン宰相の孤独な退陣

1954年秋、鳩山派と改進党が新党結成で基本合意。吉田はなぜか欧米諸国へ悠然と外遊に旅立ちますが、その間に鳩山を委員長とする日本民主党準備委員会発足。

吉田の帰国直後、鳩山総裁・副総裁重光・幹事長岸・総務会長三木、その他芦田・石橋らを最高委員とする日本民主党が発足します。

そして臨時国会召集。民主党は左右社会党(社会党はサンフランシスコ講和条約の賛否をめぐり賛成派の右派と反対派の左派に分裂中)とともに内閣不信任案提出へと動き始めます。

吉田はそれでも強硬に衆院解散の構えを見せますが、「吉田学校」の池田・佐藤を除いて自由党内は解散回避で一致。このままの流れで解散・総選挙では、惨敗が目に見えていたからでした。

広川が去ったことで名実ともに吉田の後継者となった緒方もまた解散に反対。副総理でもあった緒方の反対は吉田の去就を決定的にしました。

保利茂農相は吉田側近の池田・佐藤を説得して3名で吉田に総辞職を進言。吉田は黙って官邸から去り、首相不在のまま総辞職決定という異例の事態によって、5回にわたって組閣された吉田政権は崩壊したのでした。

◎そして、官邸を無言で去っていった吉田


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