花火の掛け声といえば「玉屋(たまや)」「鍵屋(かぎや)」
会場のあちこちで「たまや~」の声が響きますが……「玉屋(たまや)」や「鍵屋(かぎや)」の意味って何?
「たまやって何?」
「昔の花火屋さんの名前でしょ」←正解です。
「ふ~ん。花火のときはみんなそう言うの?」
「いや、違う掛け声もあったな。かぎやだ」←こちらも正解です。
「へぇ~。今はないの?」
「わかんない」
「……」
会話の主がカップルであれ、親子であれ、この程度では話題が盛り上がりません。せっかくですから、花火の豆知識を仕入れておきましょう。
花火の歴史、「玉屋(たまや)」「鍵屋(かぎや)」とは?
それでは、花火の歴史を織り混ぜて「たまや~(玉屋)」「かぎや~(鍵屋)」について解説します。■紀元前3世紀ごろ
中国の火薬の発明が戦の武器となり、やがて通信手段のノロシが夜にも用いられるようになって、火薬をきらめかせる技術が花火へと発展しました。
■慶長18年(1613年)8月6日
愛知県豊橋市の「炎の祭典」(毎年9月第2土曜日)では三河伝統の手筒花火がなどが楽しめます
■享保18年(1733年)5月28日
両国の大川(現在の隅田川)にて川開き花火大会(隅田川花火大会の原型)開催。そこで活躍したのが日本橋横山町の花火師、鍵屋六代目弥兵衛でした。
もともと「鍵屋(かぎや)」は、葦(アシ)の管に火薬を詰めて星が飛び出す花火を開発し、商才もあって花火市場をほぼ独占していました。しかし、花火が火事の原因になるため町中では花火禁止令が出され、隅田川の花火だけが許されていました。当時は納涼船を出して「鍵屋」に花火をあげさせるのが、豪商たちの贅沢の象徴だったのです。
■文化5年(1808年)
「鍵屋」番頭の静七が暖簾分けをし、両国吉川町で玉屋市兵衛を名乗る。やがて川の上流を「玉屋(たまや)」、下流を「鍵屋」が担当し、二大花火師の競演となりました 。これを応援するための掛け声が「たまや~」「かぎや~」だったのです。
■天保14年(1843年)
「玉屋」の出火で大火事となり玉屋市兵衛を江戸から追放。「玉屋」は廃業しました。
つまり、「鍵屋」から暖簾分けした「玉屋」が存在したのはたった35年間だったのです。しかし、昔も今も花火の掛け声といえば「玉屋」のほうが断然多いのはなぜでしょう?
花火の掛け声に「たまや~(玉屋)」が多い理由
どれが好き? さまざまな種類の花火が夜空を彩ります
ひとつは花火の技術が勝っていたこと。もうひとつは、語呂が良いので掛け声を掛けやすかったこと。そして、江戸っ子気質がそうさせたこと。
こんな狂歌があります。
「橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋と いわぬ情なし」
これは、実力があったのにたった一代で花火のように消えた「玉屋」への愛情を示したもの。「情」に「錠」をかけており、「鍵屋の声がねぇのもしかたあるめぇ。錠がねぇんで口が開かねぇ」という詠み手の洒落を含んでいます。
花火の掛け声、現代なら「かぎや~(鍵屋)」
黒色火薬で作られる日本古来の「和火」は、朱に近いオレンジ色。情緒豊かで繊細な光りを放ちます |
花火は夏の風物詩。今年の夏も日本のどこかで花火が打ち上げられ、夜空に「鍵屋」「玉屋」の掛け声が響いているかもしれません。
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