「インセクト・ワールド」プロジェクトを追う<2>
2001年秋、みなとみらい21地区は現代アートの祭典「横浜トリエンナーレ2001」で沸いている。このイベントのシンボル的存在《インセクト・ワールド 飛蝗(ひこう)》は、展示作品の中で一番大きい。体長約34メートル、手足を入れると約40メートルにもなる、巨大なバッタ型のバルーンだ。作者は椿昇+室井尚。芸術家であり美術教師である椿と、哲学者で横浜国立大学助教授である室井のコラボレートによる作品。ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル(以下インターコンチ)の壁にこの作品が登場してから、横浜の景色が変わった。わざわざ遠くから見に来る人もいるという。注目を集めている巨大バッタの舞台裏を探るべく、私はインセクト・ワールドに乗り込んだ。
※この記事は2001年10月の情報です。
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机上の空論を実現したい
「とんでもない! できるわけがない!」パシフィコ横浜の施設を管理する施設課長・八幡はそう言い続けた。巨大バッタの話がパシフィコ横浜にきたのは2001年5月のこと。パシフィコ横浜はインターコンチを所有している、いわゆる大家さんだ。50メートルもの大きさのバルーンを壁のどこへとりつけると言うのだ。仮に取り付けられたとしても、風に耐えられるわけがない。バルーンにかかる風圧は何10トンにもなるだろう。ゼッタイに無理だ。
「あの時、先生方は『イヤなヤツだなぁ』と思ったにちがいありません。でも、こちらとしては何も具体的な案がない企画に賛成するわけにはいきませんでした。その時、安全面・設備面での具体策があれば、あそこまで強くは否定しなかったんですが」八幡はそう振り返る。
「どうしても上げたいんです!」椿・室井の熱心な口調におされ、とにかく、インターコンチを建設した関係者を交えて会議を行うことになった。
解決策はゴンドラの上に
それから1カ月後、椿と室井、トリエンナーレ事務局、パシフィコ横浜を設計・建設した戸田建設と日建設計、バルーンを製作した風船工房、インターコンチの担当者、そしてパシフィコ横浜の担当者など20数人が集まって会議が開かれた。「検討にも及ばない」──戸田建設メンテナンス課長・関は、この話を聞いた時そう思った。椿と室井、風船工房が提案したのは、吊り輪のようにバッタを左右から吊そうというものだった。ホテルの左右についているゴンドラの溝を利用する、というものだった。すぐに強度に問題があると判断され、ボツになった。戸田建設は、後にバルーンを吊り上げるためのワイヤーを張る作業を手伝うこととなる。 何かいい案はないだろうか。みんなで7階広場に出て、上を見上げた。ちなみに、バルーンつり上げの作業が行われているのは、7階部分にある広場で、ワイヤーの先は33階の屋上部分になっている。見上げた時、33階の部分にわずかなすき間があるのを発見した。清掃用のゴンドラが左右に移動するための穴である。
関はそれを見た時、「これは使えそうだ、と直感した」という。もし、そのすき間の先に梁があれば、いけるかもしれない。インターコンチ施設管理担当副支配人・小澤の案内で33階の屋上に上がってみた。案の定、コンクリートの薄い壁の奧には梁があった。この梁にワイヤーをつなぎ、7階まで引っ張ってくる。その上に板を渡してスライドさせれば、バルーンを上げ下げできる。偶然にも、インターコンチの横に見えるベイブリッジと同じ構造であった。
この具体的な方法が見えてきた時は、すでに6月の終わり。ワイヤーはすぐに用意できるとしても、それと鉄骨をつなぐ金具は、すぐに製作にかからなければ間に合わない時期になっていた。このことを関が室井に尋ねると、「金具ぐらいの費用なら用意できます。ムダになってもいいから、取りかかってください」と即答した。「心意気みたいなものを感じました。この時、こちらも精一杯がんばろう、と思いましたね」と関はそう語った。
具体策が見えてくると、今度は広告条例などの心配がからんできた。トリエンナーレ事務局とパシフィコ横浜とが横浜市にかけあい、クリアされた。
しかし問題はこれだけではない。資金のメドが全然ついていなかったのである。制作・施工費はトリエンナーレ事務局と折半することになったものの、椿と室井の私財を投入しても、とうていまかなえる金額ではなかった。資金調達のため、2人でいくつもの企業に頭を下げて回った。それだけでなく、本格的に一般からの募金も募ることにした。グッズ製作会社の協力を得て、募金してくれた人に送るグッズも作ることになった。
ほふく前進のワイヤー工事
インターコンチでの工事は7月30日からはじまった。夏休みをはさみ、取り付け工事は8月の終わりまで行われた。今年の夏は特に暑く、炎天下の中での作業だった。 実は、33階への現場へはレストランの中を通って行くルートしか知られていなかった。しばらくして、インターコンチの小澤が裏側のルートを発見してきたのである。這って行くほど狭い、幅50cmほどの通路。インターコンチ側の客への配慮から、作業の者がホテルの中を通るのを避けたい。そのために発見したルートだった。そこから荷物を運ぶのは困難なので、清掃用のゴンドラが使われることになった。 清掃用だから、当然重いものは乗せられない。まず細いワイヤーをゴンドラに乗せて上へ運び、屋上に設置した滑車に取り付ける。そして、もう一方の先端をゴンドラでまた下へ降ろす。それを太いワイヤーと連結し、上へ引っ張り上げる、という作業が行われた。1日1本ずつ、4本のワイヤーを取り付けるのに4日かかった。 もちろん、このワイヤーを張る作業に至るまでにも、かなりの日数を要した。屋上部分で滑車や金具を取り付ける作業、クレーンで資材を7階広場まで運ぶ作業、7階広場に足場を組む作業などである。たるんだワイヤーがぶつかるかもしれない危険な部分はシートをかけて保護された。万全の体制で作業は進み、8月末にようやく完成した。ベールを脱いだ巨大バッタ
インターコンチでの工事と同時に、バルーンの製作も進んでいた。バルーンを製作した風船工房は、九州のテーマパークに40メートルのウルトラマンのバルーンを作った実績を持つ。巨大バッタバルーンはアメリカ・フロリダの工場で、1カ月半かけて作られた。素材はナイロンとポリウレタンで編まれたもので、テントのような生地。体内には4機の送風機が入っていて、そこから空気を送ってふくらんでいく。常に空気を送り、余分な空気は生地の縫い目から出ていく仕組みになっている。トリエンナーレ開幕ギリギリ、何とか間に合った。 巨大なバッタがはじめて姿を現したのは8月26日のことだった。トリエンナーレ開幕の一週間前のことだ。室井が勤めている横浜国立大学のグラウンドでふくらませるテストが行われた。たくさんの生徒たちがボランティアで手伝った。学生たちは「ワークショップの一環」として、この時だけ手伝う予定だった。が、その後のインターコンチでの作業も手伝うことになるのである。数日間、バッタの身体をたくさんの数のロープで固定する作業が行われた。この地上置きでのロープの固定が後々思わぬ事態を招くことなど、誰も予想していなかった。
はじめてこのバッタを姿を見たときのことを、室井はこう語った。「あまりのデカさにおどろきました。オープンエアで、スケールの大きな作品を作りたかった。会場の中に押し込められるのはイヤだった。椿と『インディペンデンスディ』みたいなデカいものが作りたいなぁ、と話していたんです。想像通りの出来で、満足しました」
浮上へのカウントダウン
インターコンチにバッタが搬入されたのは8月30日だった。トリエンナーレ開幕まであと3日。急ぐスタッフの気持ちに反して雨がジャマをした。作業は9月1日に急ピッチで行われた。バッタの身体をロープで固定し、バルーンを上げ下げする鉄骨(=スライダー)やワイヤーに結びつける作業だ。7階広場で作業を行ったのは、戸田建設と風船工房のスタッフのほかに、たくさんの学生ボランティアたちだった。7階広場はただでさえ高い場所なのに、さらに高い足場に登っての作業。時折、強いハマ風が吹きつける危険な場所でもある。
室井も椿も後々までこう言い続けた。「学生たちがいなければ、この作品は完成できなかった。もう私たち2人だけの作品ではない。関わった人みんなの作品なんだ。本当に学生たちには感謝の気持ちでいっぱいだ」
だが、この日は予想しなかった出来事が起きた。後ろ足のロープが次々と切れてしまったのである。浮上のカタチを想定できなかったためだ。地上置きと浮上時とでは、ロープにかかる力が異なったのである。仕方なく、バッタのおしりの部分だけ上げてみることにした。 9月2日、トリエンナーレ開幕。後ろ足のロープを付け直し、スタッフたちはバッタ浮上に挑んだ。地上から見ている人は、バッタの足が伸びたり縮んだり、おしりが見えたり隠れたり、その一部始終をやきもきしながら見守っていた。たくさんのギャラリーは上からもよく見える。「あの人たちに早く見せたい……」スタッフたちのあせる気持ちとは裏腹に、思うようには作業が進まなかった。
スライダーを上げ下げする機械(=ウインチ)のパワーが足りなかったためだ。固定ロープが切れたりもした。いくつかのトラブルを抱えながら、20時20分、ようやく浮上することができた。現場は拍手と完成で沸いた。夜のインターコンチに浮かぶその姿は、まさに幻想的であった。(文中 敬称略)
「インセクト・ワールド」プロジェクトを追う<3>「巨大バッタ、再浮上大作戦」につづく
前の話はこちら⇒「インセクト・ワールド」プロジェクトを追う<1>「巨大バッタ、再び空へ!」