結局、誰も悪くない。その生真面目さが落とし穴?
「良妻賢母幻想」の功罪
多くの女性たちは、結婚したら良い妻、良い母にならなければならない、という気持ちを抱いています。「良妻賢母」という言葉は未だ死語ではなく、変わらぬ憧れなのです。その証拠に「食費を抑えて賢く貯蓄」「母親同士の人間関係、達人になる法」「栄養バランスの良い食事で家族の健康管理」といった見出しが、主婦向け雑誌には踊っています。女性というのは本当に何と健気で、生真面目なのでしょう。「昼食代を節約して、妻にプレゼントを」「近所の父親と親しくして、子どもの関係良化に努める」などと、雑誌の知恵を借りている夫が存在するでしょうか。将来的に、専業主夫が大多数をしめる時代が来たとしても、彼らは「人は人、自分は自分」と、それぞれの裁量で家事や育児、地域のコミュニケーションに参加し、出来ることをやり、出来ないことはやらないに違いありません。近年の「マニュアル世代」はさだかではありませんが、往々にして男性の方が、「何もそこまで無理をして優等生になることはない」と考えるようです。
だからこそ、「安月給のやりくり」「公園コミュニケーション」などに頭を悩ませている妻は、「何もそこまでしなくても」と夫を嘆息させる存在なのです。「家族のために、こんなに一生懸命頑張っているのに」と考えるのは妻だけで、ほとんどの夫は「押しつけがましくされるくらいなら、そこまで頑張ってくれなくてもいい」と考えているのです。誤った「良妻賢母幻想」こそが、「夫婦の断絶」を生み出しているという気配すらあります。
「女の生真面目さ」が国を底辺から支えて来た、という考え方は間違っていないと思いますし、すべての女性が男性的な合理視点のみで生きるようになればなったで、それは潤いにかけた社会になってしまうでしょう。しかし過剰な「良妻賢母信仰」も、過ぎたるは及ばざるがごとしです。