たこ焼きようかんの産みの親!
いちびり庵店主の野杁育郎社長インタビューその2
新世界名物の通天閣です。現在の2代目通天閣ではなくて戦前の初代・通天閣ですが、よく見るとなんとゴンドラが!初代通天閣はゴンドラに乗って塔まで登っていたとか。ハイカラな大大阪時代を思わせるショットです。 |
たこ焼きようかんのいちびり庵さんが400年以上の歴史を誇る老舗企業というのは驚きでした……しかし、なんで老舗の紙問屋さんが大阪名物みやげの製造・販売会社になったわけですか?
野杁社長:
まず二ツ井戸で創業してから明治維新以降に大阪ミナミ・戎橋筋に移転してきたんです。昭和4年の大阪ミナミの古地図には「本家せのや(妹尾)」と「分家せのや(野杁)」がありまして、本家は欧米文具屋を、大正時代に分家創業の私どもは紙屋をやっていたと記載されています。
ガイド:
欧米文房具とはまたハイカラですね(笑)
道頓堀の芝居小屋「角座」です。戦前の道頓堀は芝居小屋が集積した演芸の街で、ここから落語、漫才や喜劇などが生まれて一世を風靡していきます。 |
私が小学生の頃ミナミはまだ芝居町で、うちのおじさんが紙包丁で紙を切って、中座の芝居で使う雪や、蜘蛛の糸を作っている光景なんかをよく見ました。花街の名残りもあって、芸者さんが使うチリ紙を1束4000円とかで売っていたのを見た記憶もあります。しかし終戦前に本家は没落してしまいまして。一説によると、谷崎潤一郎のパトロンをやって道楽が過ぎたとか……。
ガイド:
谷崎潤一郎のパトロン!?本当ですか?……でも欧米文具屋ならありえそうな話ですね。
野杁社長:
もっとも競馬で大穴を当ててはまってしまい、ギャンブルで身を崩したという説もあります(笑) それで分家が本家のあとを継ぐような形で文房具を扱うようになって、私が昭和49年に家業を継いだときも普通の文房具屋さんでした。ただ文房具だけでは経営が厳しい状況で、俗にいうファンシーグッズを扱うようになりました。当時はサンリオさんが登場してきて一世を風靡した時代で、創業者の辻さんにはよくお世話になりました。それからアメリカ輸入雑貨などのバラエティグッズなんかも扱いました。
ガイド:
紙問屋から文房具屋さんに変わって、それからまたファンシーグッズ屋さんになって、ついにはアメリカ輸入雑貨のバラエティショップ……時代の波なんでしょうけど、すごい変遷ですね。
野杁社長:
ところが平成元年にお店を大改装してファッション性、デザイン性の高い、こだわりのセレクトショップをオープンしたら、これが語り草になるぐらいの大失敗。ちょうどバブル経済が弾ける前で、バブル前だったからいくらでも銀行がお金を貸してくれた時代で……これがいけなかった(笑)
ガイド:
絶体絶命の大ピンチじゃないですか。
いまや日本で一番有名な大阪人となりました「くいだおれ太郎」くんのキーホルダー。大阪みやげにぜひ! |
良いお店でしたけどね。それでもう一度、バラエティグッズに戻した平成5年頃に、新聞で大阪の観光PR会社の伴ピーアールさんが企画開発した「くいだおれ太郎キーホルダー登場!」の記事を読んで、これが私どもの転機になりました。それまで大阪には大阪名物のお土産というのはあまりなかったんです。「JR新大阪駅で、いちばん売れている大阪土産は伊勢の赤福」という時代があって、これをなんとかしないといけない!と考えて、それで自社で新しく大阪みやげを企画、開発することにしたわけです。