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東京「枝線」紀行【3】京成・金町線(2ページ目)

路線図を眺めていて気になるのが、本線からちょっとはみ出した「枝線」。用がなければ乗らないそんな「枝線」を、あなたの代わりにガイドが探訪します。シリーズ第3回は、京成電鉄・金町線です。

執筆者:高橋 良算

空気まで穏やかな枝線の情景

京成金町線
窮屈そうに金町線の電車が入ってきた
柴又駅寄りのホーム先端まで歩いてみる。といっても、4両編成の電車が止まれる長さしかないから、わけはない。ホームの先端をかすめるように、踏切が斜めに横切っている。自転車がすれ違えるくらいの幅で自動車は通れない。通行量は多く、ちょっと眺めていた間にも渡る人は絶えないようだった。

その踏切の警報機が鳴り出し、民家の軒先をかすめるようにしてのっそりと電車が近付いてきた。都電が家々の裏を走るシーンを想起するが、車体が大きい分こちらのほうが迫力がある。車両は本線のものに比べると若干古びているように見える。

狭いホームの先端で写真を撮っていてふと気付くと、交代の運転士さんが撮影の邪魔にならないようにと端のほうに体をよけてくれている。しかし業務の邪魔になっているのはこちらである。すみません、と言って慌ててカメラを引っこめると、にっこり笑って運転室へ入っていった。枝線は空気までが穏やかな気がして、うれしくなる。

京成金町駅
安全運行の使命は枝線だって変わらない
その運転士さんが運転する折り返しの電車に乗り込む。駅を出発すると左へ右へとカーブするが、水戸街道の陸橋をくぐるとすぐ直線になる。

線路に並行する道路を小岩行きの路線バスが走っていて、柴又駅までは金町線と競合している。本数ではバスにかなわないけれど、金町浄水場前で信号待ちのバスを1台追い抜いた。スピードを落として右にカーブしながら、柴又駅へ着く。

金町線のルーツは「人車」

この金町線の歴史をひも解いていくと、明治時代に開業した「帝釈人車軌道」(開業時は「帝釈人車鉄道」)というのに行き当たる。電車、汽車、馬車、牛車、などというのは、どれも「動力+車」という組み合わせの言葉だから、その法則からすると、この「人車」というのは人が動力の乗り物ということになる。

現代では想像するのも容易ではないが、線路の上を、人間が客車を押して走っていたのだ。自動車や鉄道がまだ十分に発達していなかった時代、過渡期の交通機関として人車軌道は全国に数多く存在した。

京成金町線
金町~柴又間の直線区間
帝釈人車軌道は、帝釈天への参詣客を運ぶため、金町~柴又間で明治32年に開業。当時の運賃は片道5銭だったという。その後、京成が曲金(現在の京成高砂)から柴又へ電車の線路を延ばし、人車軌道を吸収する。大正2年に人車は電車にとって代わり、現在の金町線ができあがった。

人車軌道は複線だったが、線路の幅は610mmというコンパクトなもので、現在の金町線の線路の幅は1435mmだから半分にも満たない。金町線のうち金町~柴又間が単線なのは、その名残だろう。


この枝線唯一の途中駅、柴又で途中下車。柴又といったらもちろん…… >>
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