金融教育家・田内学氏の著書『お金の不安という幻想 一生働く時代で希望をつかむ8つの視点』は、物価高の裏で起きていること、いくら貯めても安心できないといった「お金への不安」から抜け出すための生存戦略を描いた一冊。「お金と生き方」を考える教材として教育現場でも注目されている。
本書から一部抜粋し、企業が「欲しいもの」ではなく「不安」に駆られて買わされるようになった背景と、消費者にある「呪い」の存在について分かりやすく解説する。
「欲しい」から「買わされる」時代へ
企業はかつて、「人々が本当に欲しいもの」を作っていた。だが今は、「人々に欲しがらせること」に力を注ぐ。企業と消費者の当たり前の関係がすれ違い始めたのは、いつからだろう?話は、戦後の復興期にさかのぼる。1952年、日本はサンフランシスコ講和条約の発効により独立を回復した。占領期を経て、日本人はアメリカの豊かさに強い憧れを抱いた。
当時の企業は人々が求めるものを作り、消費者もまた、それを素直に手に取った。両者が手を取り合って豊かさを目指す、健全な循環があった。
たとえば、当時のナショナル(現パナソニック)の新聞広告には、「我々の生活はこれでよいか? 」という問いかけで始まっている。これは不安を煽(あお)るためではない。広告の本文からは、「電化による社会生活の向上」をみんなで目指そうとする強い意志が伝わってくる。
「憧れ」に導かれた豊かさ。それが、かつての日本社会だった。
高度成長期には、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器を手に入れるために人々は懸命に働いた。道路が整備され、鉄が作られ、その鉄で自動車が生産される。道路や鉄を作るために働いた人々は、稼いだお金で自動車や家電を買い、企業はさらに消費者が欲しいものを作った。
自分たちの欲しいものを作ってお金を稼ぐ、という当たり前の姿がそこにはあった。
好循環は続き、日本は1980年代に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称えられ、経済規模でアメリカに肉薄した。だが、その勢いは1990年代半ばを境に停滞していく。経済学者の小野善康氏は著書『資本主義の方程式』で、停滞の原因を「モノ経済からカネ経済への移行」と説明している。
戦後から高度成長期は、モノを得ることが豊かさだった。ところが、モノが満たされると人々の関心は「カネ」へと移った。
消費者は少しでも安く買って、お金を貯めようとする。企業は、売上を確保するために、価格競争に巻き込まれる。どれだけ良いモノを作っても、高くては売れない。
「モノを売りたい企業」と、「カネを貯めたい消費者」は、いつしか対立し、その距離は広がっていった。かつて「欲しいもの」を作っていた企業は、生き残るために「欲しがらせる」ことに力を入れるようになる。
不安を煽る言葉。焦りを仕掛けるカウントダウン。必要かどうかではなく、損をしないうちに買わせる仕組み。こうして、購買の動機は「憧れ」から「不安」へと静かにすり替えられた。
企業と消費者が共に未来を目指す関係は、消え去ったかに見えた。ところが、その閉塞感に風穴を開ける出来事が2019年に起きる。
カネも不安も「売る」時代
2019年、「老後資金が2000万円不足する」という金融庁のレポートが話題になった。この「老後2000万円問題」は、お金への不安をふくらませただけでなく、消費者と一部の企業の関係を変えるきっかけにもなった。人々の関心は依然として「カネ」に向けられていたが、単に貯めるだけではなく、投資で増やそうという動きが広がり始めた。「モノを売りたい企業」と、「投資でカネを増やしたい消費者」のニーズが一致した瞬間だった。企業は、「金融商品」という形で、消費者の欲求を満たせたのだ。
さらに2024年、新NISA制度がスタートすると、この流れは加速する。政府の後押しで、「投資は、やらなきゃ損」という空気が広がった。
ふくれ上がった「お金の不安」は、作られた側面もある。生活や将来への不安は昔からあったが、それらが「お金の不安」として括られ、他の解決策が見えにくくなった。
老後の不安なら、地域や家族との支え合いという方法もあるし、定年後も働けるスキルを身につける選択肢だってある。けれど、一度「老後資金の問題」と定義されると、お金を貯めること、増やすことばかりに目が向く。
不安を感じる私たちに金融機関が忍び寄る。「インフレで現金の価値は目減りします」「投資を始めないと手遅れです」と焦りを誘う。
だが、過去インフレになったときを振り返ると、金利が高くなり、預金だけでもお金は増えた。実際に2024年から始まった利上げによって、預金金利は徐々にではあるが上昇している。また、2025年5月時点で、無リスク金利とされる国債金利の30年ものは2.8%に達している。
「定価が高ければ価値がある」という思い込み
100万円をこの金利で運用すれば、30年後には230万円にまで増える計算だ。これは十分に堅実な方法だが、こうした情報はあまり表に出ない。金融機関が売りたいものは、別にあるからだ。企業の思惑を知っていれば、不安を煽る情報に出くわしても冷静でいられる。これは投資に限った話ではなく、教育、美容、健康など、あらゆる消費行動に共通する。結局のところ、大切なのは、自分自身の価値基準をしっかり持つことだ。
私たちは気づかぬうちに「価格の呪い」にとらわれていないだろうか? 「定価が高ければ価値があり、安く買えれば得だ」という思い込みだ。この呪いを解く鍵は、自分が感じた満足感を信じることにある。 田内 学(たうち・まなぶ)プロフィール
社会的金融教育家。お金の向こう研究所代表。2003年東京大学大学院情報理工学系研究科修士課程修了後、ゴールドマン・サックス証券株式会社に入社。日本国債、円金利デリバティブ、長期為替などのトレーディングに従事。日本銀行による金利指標改革にも携わる。2019年に退職し、執筆・講演活動を通じて「お金と社会の関係」を伝える活動を始める。『きみのお金は誰のため』(東洋経済新報社)は「読者が選ぶビジネス書グランプリ2024」で総合グランプリを獲得した。







