『弔いの値段 葬式、墓、法事……いくら払うのが正解か?』(鵜飼秀徳・大久保潤著)では、ジャーナリストであり現役住職が弔いの現場のリアルについてお伝えしています。
今回は本書から一部抜粋し、お布施の金額明示がもたらす落とし穴と、本来あるべき寺との関係性について紹介します。
<目次>
料金明示の思わぬ落とし穴
布施金額を明示することの弊害は、確かにあります。もらう側の僧侶が金額を明示して、お経を唱えたり、戒名を授与したりすることは「サービスの対価」になってしまいます。したがって、布施の金額を明示した宗教儀式は「ビジネス」の要素が濃くなります。金額を明示する場合、「布施」という言葉を使ってしまうと語弊を生みます。「儀式料」「読経料」などと言うべきでしょう。
こうなってしまえば、宗教法人法に規定する「宗教上の行為」と言えるかどうかは微妙なところです。
つまり、逆説的にとらえれば「対価がなければ、儀式をしない」ということになりますから。
憲法で保障されている「信教の自由」の侵害にも抵触することにもなるでしょう。
また、民間業者と同じような「葬式業」になれば、宗教法人課税への舵が切られる可能性も秘めています。
国税庁は、「布施の料金明示」に対して今のところは宗教活動と認め、非課税扱いにしています。ですが、今後はどうなっていくかわかりません。
布施や戒名料を一律料金にすることは一見、フェアのように思えます。しかし、「弔い」の世界は「モノやサービスの提供」ではありません。「ウン万円以上払わなければ葬儀をしない」という態度は、本来の宗教からはかけ離れたものです。
仮に、その寺の布施料金が「格安」に設定してあったとしても、生活保護受給者や母子家庭など、日々、やっとの生活をしている檀家にとっては「とてもじゃないが払えない」ということになってしまいます。
中には、「葬儀の布施が払えなければローンで」などと、平然と言う住職もいます。布施の「見える化」によって、逆にお布施で困っている方がいることは事実です。
求められる金額の明示
では、布施はどうあるべきなのでしょうか?本来は、「阿吽の呼吸」で布施の金額が決まるのが好ましいことは、言うまでもありません。
四半世紀ほど前まではまだ、親族や地域の中に、過去に何度も葬祭を経験してきた人が何人もいたものです。仮に喪主が相場感を理解していなくても、教えてあげる人がいたわけです。なので、喪主が住職に直接、布施金額を聞くということはありませんでした。
ですが、今は核家族社会です。
故郷に住んでいる親が亡くなって、東京に住んでいる子どもが初めて喪主になるというケースが増えています。親の葬式の際に葬儀会館で、初めて菩提寺の住職と顔を合わせるということもよくあります。
なので、現代日本では「金額を明瞭にしたほうが分かりやすい」「布施金額を教えてくれるほうが檀家に寄り添っている」と考える人が多数派かもしれません。
実際に、一般社団法人良いお寺研究会が実施した「お布施の金額を明示することの是非についてのアンケート」では、賛成が68.7%に対し、反対が11.1%(どちらでもない20.2%)と圧倒的多数が「布施金額を明示してほしい」と答えています。
本来の布施の理念を大事にすべきか、社会のニーズに仏教側が合わせていくべきか。この最適解は「布施の理念は大切にしつつ、仏教側も社会の求めに応じていかねばならない」ということだと思います。
つまるところは布施の問題は、菩提寺側と檀家側との関係性の問題なのです。普段から住職と檀家がコミュニケーションを取ることが肝要です。すると住職は、檀家の経済状況、家庭の事情が把握できます。檀家も、菩提寺のことを理解するように努めましょう。
そう、檀家は菩提寺を「サブスク」としてとらえ、使い倒せばよいのです。
布施は寺院と檀家の「信頼関係」の上に成り立っています。だから、いくら安い料金を明示しても、宗教行為に意味を見出せない人にとっては、その対価が「高すぎる」と感じるのです。
鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)プロフィール
僧侶、ジャーナリスト。1974年、京都・嵯峨の正覚寺に生まれる。成城大学文芸学部卒業。日経BP記者を経て独立。2021年に正覚寺住職に就任。主に「宗教と社会」をテーマに執筆、取材を続ける。大正大学招聘教授、東京農業大学、佛教大学非常勤講師。公益財団法人全日本仏教会時局問題検討委員会委員(学識経験者)。
大久保 潤(おおくぼ・じゅん)プロフィール
1963年生まれ。国際基督教大学教養学部卒。日本経済新聞社入社後、社会部、証券部、那覇支局長、新潟支局長を経て、現在は東京本社くらし経済グループ・シニアライター。自治体や大学、経営者団体などでの講演も多数。







