本記事では、書籍『かながわ鉄道廃線紀行』より「第9章 南武線にかつて存在した多くの貨物支線」の内容を一部抜粋して紹介。JR南武線には、かつて数多くの貨物支線が存在し、現在、廃線跡のいくつかは遊歩道として整備されている。
南武線の起源は多摩川砂利鉄道
JR南武線には、今も現役で列車が運行されている浜川崎支線(尻手―浜川崎間4.1km)、貨物専用の尻手短絡線(尻手―新鶴見信号場―鶴見間5.4km)以外にも、かつては数多くの支線が存在した(支線名は、いずれも通称)。なぜ、南武線に多くの支線が敷設されたのか、その歴史を見ていこう。 南武線の起源は、1919(大正8)年5月に、沿線在住者らが中心となって鉄道院に敷設免許を出願した多摩川砂利鉄道である。当時は、鉄道や道路の整備、鉄筋コンクリート建築の登場による用材としての利用に加えて、川崎・鶴見沖の埋め立て・京浜工業地帯の造成が始まるなど大量の砂利が必要とされた時代。多摩川流域では玉川電気鉄道(後の東急玉川線、1907年開業)、東京砂利鉄道(国分寺―下河原間、1910年開業)、京王電気軌道(現・京王電鉄、1913年開業)、多摩鉄道(現・西武多摩川線、1917年開業)などが砂利輸送を行っていた。
多摩川砂利鉄道は、こうした先行企業を追いかける形で、「一般旅客貨物ノ運輸ヲ営ミ併セテ沿線各地ニ於テ産スル砂利採集ヲ兼営シ之ヲ搬出」(「多摩川砂利鉄道線路敷設免許申請書」)することを目的として計画された。これだけを見ると、「一般旅客貨物ノ運輸」が主で砂利輸送は兼業のように思われるが、収支目論見書によれば、総収入の8割を砂利輸送が占める計画だった。
1920(大正9)年1月には地方鉄道敷設免許が下付され、直後の3月に南武鉄道と改称している。旅客輸送も見込んでいるのに社名が「砂利鉄道」では、出資者を募る上で、やはり支障があったのだろう。ともあれ、翌1921(大正10)年3月には、創立総会を開催し、南武鉄道はスタートを切った。
ところが、当時は1920(大正9)年3月に発生した戦後恐慌(第一次世界大戦後の反動恐慌)の影響で財界が不振に陥っていた時期であり、資金難と用地買収の困難から、その後の建設工事は一向に進まなかった。後述するように、南武鉄道は浅野セメントの出資を得て、ようやく開業にこぎ着けるのである。
川崎―登戸間の本線(17.2km)および矢向―川崎河岸(がし)間の貨物支線(1.6km)が開業したのは、免許取得から7年が経過した1927(昭和2)年3月。旅客列車を川崎駅で東海道線に接続させる一方、矢向駅から貨物支線を分岐させ、その終点の多摩川の河畔に、砂利の船積み施設を備えた貨物専用の川崎河岸駅を設置した。沿線の宿河原と中野島で採取した砂利を貨物列車で川崎河岸駅まで運び、船や艀(はしけ)に積み替え、目的地まで運んだのである。
この川崎河岸駅の砂利の船積み設備について、『南武線いまむかし』(原田勝正 著)に次の記述がある。
多摩川右岸につくった船溜(ふなだまり)の上に、いくつものじょうごの口が斜めに突き出ていて、その上に貨車を引き込む線路が走っている。砂利などを積んだ貨物列車が到着すると、貨車の側板を倒す。するとそのまま、このじょうごから船に荷を卸すことができる。
川崎河岸駅跡へ貨物線跡を歩く
では、矢向駅から川崎河岸駅跡を目指して、貨物支線の廃線跡を歩いてみよう。矢向駅で南武鉄道本線から分岐した貨物支線はカーブを描いて東へ進路を取り、多摩川の河川敷に面した川崎河岸駅に至っていた。現在、矢向―川崎河岸間の貨物支線廃線跡は、その大部分が「さいわい緑道」として整備されており、植栽もきれいに手入れされ、気持ちよく歩くことができる。 さて、かつて貨物線が走っていた痕跡が何か残っていないか探しながら緑道を歩き始めると、地元の子どもたちの手によるものだろうか、タイルを使った壁画に「川崎河岸駅」の文字が見られた。残念ながら駅の方向を示す矢印が反対向きになっているが、ご愛嬌(あいきょう)である。
さらに歩を進めると、国道1号線をクロスする手前に、「旧南武鉄道貨物線軌道跡」と刻まれた記念碑を見つけることができた。記念碑の下部に貼り付けられたQRコードをスマートフォンで読み取ると、南武鉄道とこの貨物線について説明する簡単な動画が再生される。 国道を渡った先の南河原公園には、桜の木がたくさん植えられている。花見シーズンに再訪したいところだ。そのまま小学校の裏手を進むと、間もなく広い空間がパッと開ける。ここが川崎河岸駅跡の「緑道公園」である。前掲の1928(昭和3)年に測量された地形図と照らし合わせてみると、駅の敷地がほぼそのまま公園として整備されていることが分かる。 川崎河岸駅が砂利の積み替え場として機能していた当時は、この先の現・国道409号線を越えて、多摩川の河畔まで線路が延びていた。地形図を見ると、多摩川の河川敷に港のドックのような掘り込み(船溜)が2本造られ、その間に線路が引き込まれている。ここで砂利の船積みが行われたのだ。だが、現在は国道を渡った先はマンションになっており、私有地のため立ち入ることができない。残念ながら廃線散歩はここまでということになる。
この川崎河岸駅が最終的に廃止されたのは1972(昭和47)年5月のこと。駅に隣接して存在した東京製綱川崎工場(現在の市営河原町団地敷地)が、土浦へ移転・拡張するのに伴い1969(昭和44)年に閉鎖されたことなどによる。
続いて、砂利採取場の跡も見に行こう。宿河原と中野島には本線から分岐し、河原の砂利採取場へと続く砂利採取線が敷設されていた。このうち中野島の採取線跡は、宅地開発等により消滅しているが、宿河原のほうは今も廃線跡が道路として残っており、たどることができる。 宿河原駅は「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」の最寄り駅なので、降りたことのある人も多いだろう。砂利採取線の廃線跡へ向かうには、改札を出て跨線橋(こせんきょう=線路をまたぐ橋)で駅北側に渡る。跨線橋上から眺めると、いかにも鉄道廃線らしい弧を描きながら多摩川河畔に向かって続く道路が見える。この道路は500mほどで多摩川の堤防に突き当たる。途中、砂利採取線の跡であることを示すようなものは何もない。
こうした南武鉄道沿線の砂利採取場は多摩川下流域に位置していたため、上流域での採取が進むにつれて砂利の供給が不十分となり、1930年代半ばには当局による採取制限が始まった。そのため南武鉄道は「上流の青梅電気鉄道沿線で委託採掘をおこなうようになって、事業を維持」(『神奈川の鉄道 1872‐1996』青木栄一ほか)したというから、宿河原・中野島の砂利採取線が活躍した期間は、そんなに長くはなかったのだろう。
周辺には、ほかにも鉄道廃線跡が
この砂利採取線跡を歩くだけでは廃線跡散策としては物足りない。せっかく宿河原まで足を運んだならば、「玉電」の愛称で親しまれた玉川電気鉄道の支線の1つ、砧(きぬた)線(二子玉川―砧本村間)や、小田急向ヶ丘遊園モノレール(向ヶ丘遊園駅―向ヶ丘遊園正門間)など、近隣の廃線跡にも足を延ばし、併せて歩くことをおすすめしたい。 ――編集部より――書籍『かながわ鉄道廃線紀行』では、続けて南武線が川砂利とともに輸送を担った、セメント原料の石灰石を運ぶようになった歴史的経緯や、向河原駅付近にも存在した貨物支線跡を歩くなどしています。 森川天喜 プロフィール
神奈川県観光協会理事、日本ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)、『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年10月 神奈川新聞社刊)など
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