この事件が光州で起こった経緯と10日間の抗争
1979年、軍事独裁政治を行ってきた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が射殺されたのち、崔圭夏(チェ・ギュハ)が大統領に就任した。 朴正煕政権下で政治活動を制限されていた政治家たちが再び活動をはじめ、学生・労働運動も活発に行われるようになった。「ソウルの春」と称されるこの時期、ついに民主化に向けて歩み出すかと思われたが、12月12日全斗煥が自身の組織メンバーとクーデターを起こし政権を掌握する。翌年5月17日には戒厳令を布告し、金大中をはじめとする有力政治家を連行。光州では民主化、大統領直接選挙の実現を目指しデモ活動が盛んに行われた。
5月18日、全南大学正門で戒厳令に抗議する学生と戒厳軍が衝突したことによりデモは拡大し、学生だけでなく光州市民も多く参加するようになる。戒厳軍は武力で鎮圧を図ろうとしたために抗争は激化した。
5月21日には戒厳軍の作戦により光州市と外部の通信回路が遮断され、光州は孤立状態となる。戒厳軍による武力弾圧は、市民の頭を棍棒で殴る、銃剣で突き刺しえぐるといった残虐なものであったが、こうした光州の実態は韓国の他の地域に報道されることはなかった。
過酷な状況の中、光州市民で結成された市民軍は必死の抵抗を続ける。27日には戒厳軍が市内全域を制圧し、市民軍の抗争本部が置かれた道庁に進入、激しい銃撃戦の末多数の死傷者を出し、生き残った者も逮捕された(5.18民主化運動真相究明調査委員会によると、1980年5月18~27日の間の死亡者数は166人であるが、実際にはその数倍という見解もある)。
この10日間に及ぶ一連の抗争を政府側は当時、デモをする市民を北朝鮮に煽動された暴徒とみなし、光州事態、光州暴動などと表現していた。しかし、盧泰愚(ノ・テウ)政権下の1988年、暴徒による反乱ではなく民主化運動であったと再定義されたことで、以後韓国では「5.18民主化運動」と呼ばれるようになった。
2019年から4年間5.18真相究明調査委員会により大規模な調査が行われたが(2019年以前にも政府による大規模調査が4度行われている)、事件の全容が明らかになることはなかった。現在も諸団体が真相究明活動を続けている。