丘陵地帯にモノレールが建設された理由
同路線は、開業からわずか1年半後の1967(昭和42)年9月に運行休止となり、その後、復活することはなかった。もし、もう少し長く存続していたならば、1970(昭和45)年3月に湘南モノレール(大船―湘南江の島間)が開通し、大船駅は運営会社も形式も異なる2つのモノレールを乗り換えられるモノレールの「聖地」になっていたのに……。多くの鉄道ファン、モノレールファンが、そんな“夢”を持っているようである。そもそもこの地になぜ、モノレールが敷設されたのだろうか。その理由として、「日本最大の遊園地」と称された横浜ドリームランド(横浜市戸塚区俣野町)が1964(昭和39)年8月にオープンしたものの、最寄りの国鉄(現・JR)大船駅から5km以上も離れており、アクセスの悪さがネックになっていたことが挙げられる。
バス、タクシーだけでは輸送力が限られ、途中で国道1号線をクロスしなければならず、渋滞も予想された。従って路上交通と分離した別な交通手段が必要だったわけだが、丘陵地帯が広がる鎌倉市北西部や横浜市戸塚区の南西部に、通常の鉄道を敷設するのは不可能に近かった。そこで、簡易な構造物のみで建設でき、輸送力も比較的大きく、さらにゴムタイヤ採用により登坂力にも優れたモノレールが採用されることになったのである。
当時はモータリゼーションの進展により各地で交通渋滞が問題となる中、地下鉄よりも安価に建設できるモノレールが脚光を浴び始めていた時期であり、日本の各メーカーは海外のモノレール先進企業と技術提携することにより、モノレールの技術導入と開発を図ろうとしていた。
ドリームランドモノレール計画の入札には複数企業が手を挙げたが、採用されたのは東芝式だった。この東芝式はアルヴェーグ式(注:東京モノレールなどで採用された方式)をベースとしつつ、車体と台車を完全に分離したボギー連接台車構造にするなど、独自の改良を加えたものだった。東芝式が採用されたのは、先行開園した奈良ドリームランドのモノレールが好調だったからであろう。
モノレールの建設過程
ドリームランドモノレールの建設は、東芝が車両と電気設備の設計・製造(車両のボディ部分は東急車輌が製造)、三井建設が軌道の設計・建設を担当し、総工費約25億円をかけて進められた。大船駅からドリームランド駅までの路線総延長は約5.3km、両端の駅のほぼ中間地点に、交換所(すれ違い場所)である小雀信号所と変電施設を設けた。モノレールの建設過程に関しては、神奈川新聞が何度か記事にしている。まず、1966(昭和41)年1月26日付の記事が、モノレール計画の全容を分かりやすく書いている。
続いて同年3月23日付で、モノレール建設計画がかなり強引に進められた様子を伝える記事が掲載されている。大船駅~横浜ドリームランド五・三キロを結ぶモノレール建設工事は総工費二十五億円をかけて着々進んでいるが戸塚区原宿町一〇二〇さきの幅四十メートルの東海道をまたぐ路線架設工事が二十五日深夜から二十六日未明にかけて行われた。(中略)
モノレール線建設は三十九年初めドリーム交通の手でドリームランド入園者と付近の住民の輸送を目的として計画された。将来はさらに小田急線長後駅まで三・六キロ延長する計画。
使われる電車は“馬乗り型”一編成三両で乗車定員は百二十五人、最高速度は六十キロで全線を十分間(筆者注:実際は8分)で走る。料金は片道おとな百七十円、こども九十円、往復おとな三百円、こども百五十円の予定。
この路線は山あり谷ありの急こうばい続き、起伏に富んだ半ばケーブルカーのようにながめよい乗り心地を楽しめることになるという。
単線路線のため小雀浄水場に上下線の待ち合わせ所ができ、将来はここに途中駅を作るという。
こうした法律無視の姿勢が原因か、開業もすんなりとはいかなかった。ドリームランドモノレール開業当日の様子を伝える書籍(『横浜の鉄道物語』長谷川弘和著)によると、開業予定日の朝、駅のシャッターは下りたままだった。駅員に理由を聞くと、「まだ認可されていない由で、認可があり次第開通する」との回答で、結局、初日にモノレールが走ったのは、わずか4時間くらいだったとのことである。鎌倉市農業委員会の調査特別委員会は二十二日、モノレール建設中の戸塚区ドリーム交通会社・松尾国三社長に対し、再び工事の中止勧告をした。
理由は、鎌倉市関谷地区を走るモノレール建設工事にさいし、農地法を無視して許可前に工事を始め、工事中止の勧告を無視してどんどん工事を進めているというもの。(中略)
同委員会は『農地法を全く無視している大資本に対し徹底的に追及する。農地法は国法であり、国法を無視するやり方はけしからん』と憤慨している。(後略)
重すぎて「無期運休」
当初からこのように、ずさんな運営がなされていたのだから、後から振り返れば開業後1年半で運休に追い込まれたのは、無理もないことだったのかもしれない。運休に至った直接の原因は、車両重量の過大であった。営業開始後、ゴムタイヤがたびたびパンクしたため、車両を計量してみると、営業許可申請時に3両固定編成で重量30トンの予定だったものが、実際には45トン以上にもなっていた。また、軌道桁のコンクリートにヘアークラックと呼ばれるひび割れが生じているのも発見された。こうした状況を危険と判断した陸運局の勧告により「無期運休」となったのである。 東芝の言い分は、「最初、現在の路線の北側の平たん地を通る予定で設計したところ、その後コースが再三変って、千分の十(筆者注:100パーミルの誤り。1000m走るごとに100m上る)という急こう配を持つ路線になったため、車両の強度を高くする必要から、車体が予定より重いものになった」(1967年9月26日付朝日新聞)、「安全のため連結器はじめ各部品をがんじょうにした。いわばていねいに作りすぎた結果重すぎるものになってしまったわけで、それほど重くなるとは思わなかった」(同日付読売新聞)というもの。100パーミルの難所に対応するため、当初の設計よりモーターを大型に交換したのも重量増加の要因だった。 ――編集部より――書籍『かながわ鉄道廃線紀行』では、より本質的な原因を突き詰めるために、筆者が他の資料を調べた結果や、長期化した裁判、1990年代になって持ち上がったリニアでの復活計画などについても語られています。また、ドリームランドモノレールの廃線跡を実際に歩き、当時の写真を見ながら、在りし日のドリームランドモノレールの姿を振り返っています。
森川天喜 プロフィール
神奈川県観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)。2023年10月~神奈川新聞ウェブ版にて「かながわ鉄道廃線紀行」連載。
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