夫の正体はまさかの生成AI動画だった?
「レディコミの女王」として知られる人気漫画家の井出智香恵さん(75歳)は、ハリウッドスターのマーク・ラファロをかたる詐欺師にだまされ、総額7500万円を失った過去を持ちます。
詐欺師とは一度もリアルの場で会ったことはなく、ネットでのやり取りだけで“結婚”。偽の夫が困っていると訴えるたびに、井出さんはお金を送り続けていました。夫の存在を信じてしまった背景には、実在の人物の動画や音声を生成AIが学習して作り出す「ディープフェイク動画」がありました。
「ビデオチャットの画面に現れた偽のマーク・ラファロを本物だと信じてしまった」と話す井出さんに、詐欺の手口の実態を聞きました。
合成動画の男と“結婚”血の儀式で永遠の愛を誓う
――井出さんは2018年から2021年にかけて国際ロマンス詐欺の被害に遭ったそうですね。Facebookで俳優のマーク・ラファロと名乗る男からメッセージが届いた時のことを教えてください。井出智香恵さん(以下、井出さん):マークから始めてメッセージをもらったのは2018年2月のことでした。「ハリウッドスターからメッセージが届いた!」と舞い上がってうれしかったですね。『アベンジャーズ』や『フォックスキャッチャー』など彼が出演している映画を観ていて、ファンでしたから。でも最初は「本物かしら?」と疑う気持ちもあり、遊び半分でメールをやり取りしている程度でした。普段、私は一人孤独に漫画を描いている生活を送っているものですから、彼からメッセージが届くのが楽しみになっていたんです。
そんなやり取りを続けているうちに、マークが「君が描いた漫画を読んだ」と言い出しました。そして、ビデオチャットで、彼が私の漫画を読んでいる様子を見せられたんです。それで完全にマークが「本物」だと信じ込んでしまいました。後にディープフェイクを使った合成動画の「偽物」だったと判明したのですが……。
ビデオチャットで井出さんと話す偽のマーク・ラファロ(井出さん提供)
私は70代のおばあちゃん、相手は50代のハリウッドスター。20ほど年齢差があり、不釣り合いではないか思いました。でも、マークが強引に結婚を迫ってくるんです。だから私は「日本に来て」と言いました。結局、マークは「途中で事故に遭った」と言って来ませんでしたけどね。
あれこれ思い悩んだ挙句、私はプロポーズを受け入れ、パソコンを通じて結婚式を挙げました。互いにパソコンのモニターを通じてイタリア式の秘密の儀式という「血の誓い」を行ったんです。これは、マークから教えられたもので、指先を傷つけてその血を重ね合うことで永遠の愛を誓う儀式だそうです。神聖な儀式のように聞こえるかもしれませんが、私自身は「ままごとをしているような気分だなあ」と思いましたね。
「妻だから助けなければいけない」と盲信
――“結婚”を機にお金の要求が始まったのでしょうか。井出さん:はい。プロポーズから1カ月が経った頃、「フライトに乗り損ねたから、新たなフライトを予約するために1100ドル(約14万円)を貸してほしい」と言われました。大した額ではないので、海外送金サービスの「マネーグラム」を使って送ったんです。
この初めての送金以降、マークは次々と借金をせがんできました。「僕は離婚訴訟中だから僕名義の口座はすべて裁判所の管理下にある」と言うのです。要求に応じているうちに手元の現金はなくなり、貴金属を売ってお金に換えて送金しました。それでも足りなくなって、子どもにまで借金してマークに渡していました。
最初の送金から1カ月後には1000万円以上、失っていましたね。当時は「彼の妻だから助けるのは当たり前」「いずれ返してもらえるのだから」と信じていたんです。
「夫」から届いたキャリーバックの中身に驚がく
――どのようにして被害総額が7500万円にまで膨らんだのでしょうか。井出さん:マークが突然、「苦労をかけた君に1200万ドルを贈りたい」と言い出し、私はお金を受け取るため、次女と一緒に新幹線に乗って京都から東京へ向かいました。指定されたホテルに現れたのはマークの友人と名乗る黒人の男2人でした。その場ではお金を渡してもらえませんでしたが、3日後、彼らは京都にある私の実家までキャリーバックを届けに来ました。バックの中には「ブラックマネー」と呼ばれる黒い紙幣が大量に入っていました。男たちが黒い紙幣を数枚「オイル」という液体にさらすと、100ドル札に変わりました。それを見た私と次女はビックリ仰天です。
男たちは、「今日はオイルを少ししか持ってきていないから、後日オイルを持って来る」と言って帰りました。その100ドル札を外貨両替所に持っていくと問題なく換金できたので、私は(残りの黒いままの)お金も本物だと思い込んでしまいました。
井出さんの実家に届いた「ブラックマネー」と呼ばれる黒い紙幣(井出さん提供)
詐欺師と闘うために漫画を描き続ける決意
――すべてが嘘だったと判明した時、どのような気持ちでしたか。井出さん:当時はマンションの15階に住んでいて、ベランダから1階を見下ろして「このまま飛び降りたらベタっと倒れて血が飛び散るだろうな」と思いました。漫画で人が飛び降りるシーンを描いてきたので、どんな風になるかイメージできるんです。ただ、「本当に飛び降りたら痛いだろうな」と思ってやめました。そんな悲惨な姿を子や孫に見せられませんしね。
本当にバカなことをしてしまったと心から反省しています。と同時に、自らの経験を赤裸々につづることで、詐欺師と闘い続けようと決めました。反面教師として「こうなってはいけない」ということを皆さんに伝えたい。そう思って、『毒の恋 7500万円を奪われた「実録・国際ロマンス詐欺」 』(双葉社)を書き、今もWEB漫画『毒の恋―POISON LOVE―』を描いています。まだ2000万円ほど借金が残っていますが、死ぬまで稼いで返済するつもりです。
「信じたい」すべてが嘘だったとしても……
現在も毎月100ページの漫画を描き続けている井出智香恵さん(本人提供)
井出さん:私は以前、離婚を経験しているんですね。元夫は私だけでなく自分の子どもにも暴力を振るう酷い男でしたので、30年以上、男性を受け入れずに生きてきました。ですから、「私に限って男にだまされるなんて絶対ない」と思っていたんです。
現役で漫画家として執筆に没頭する一方、年齢を重ねるにつれ、健康問題や住宅ローン、子どもや孫の心配などで頭を悩ませることが増えていました。そんな心の隙に入り込んできたのが、今回の詐欺でした。
詐欺師は相手を褒めるだけでなく、相手が大事にしているものまで褒めてくれます。家族の話を聞き出し、とことん褒めてくれる。それが女心をくすぐるんです。日々のつらいことや愚痴を親身になって聞いてくれるとうれしいじゃないですか。そうすると、「なんか変だな、おかしいな」と思うことがあっても「信じたい」という気持ちが上回ってしまうんですね。たとえすべてが嘘だったとしても、ここまで自分に寄り添ってくれるんだから……と。
井出 智香恵(いで・ちかえ)
1948年、長野県出身。1966年、少女漫画誌『りぼん』にて『ヤッコのシンドバット』でデビュー。1968年、同誌に掲載された『ビバ!バレーボール』が人気を集める。1980年代からレディースコミックに活動の場を移す。代表作に『羅刹の家』『嫁と姑“超”名探偵』『人間の証明』などがある。
取材・文/秋山 志緒
外資系金融機関で広報業務に従事した後に、フリーのライター・編集者として独立。マネー分野を得意としながらも、ライフやエンタメなど幅広く執筆中。ファイナンシャルプランナー(AFP)。X(旧Twitter):@COstyle