石川啄木の日記に登場する神楽坂
石川啄木も神楽坂に関する文章を残している。啄木が亡くなる年、1912年(明治45年)に書かれた『千九百十二年日記』にも神楽坂が出てくる。まずは、1月29日の日記。病気になり、金もなくなった頃だ。一月二十九日(月)
もう少しで十二時といふ時に、社の人々十七氏からの醵集(きょしゅう)見舞金三十四円四十銭を佐藤氏が態々持つて来て下すつた。外に新年宴会酒肴料(三円)も届けて下すつた。私はお礼を言ふ言葉もなかつた。
朝日新聞社の社員17名が見舞金を出し合って、34円40銭。これに加えて、新年宴会酒肴料の3円も加わった。生活苦もこれで一息つけるかと思ったら、翌日の日記はこうある。
一月三十日(火)
夕飯が済んでから、私は非常な冒険を犯すやうな心で、俥にのつて神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買ひに出かけた。帰りがけに或本屋からクロポトキンの『ロシヤ文学』を二円五十銭で買つた。寒いには寒かつたが、別に何のこともなかつた。
今も、相馬屋さんは神楽坂にある。文房具屋さんだ。マス目の原稿用紙をここが最初に作ったのだそう。そして、今でも原稿用紙を売っている。さて、啄木のこの日の日記はまだ続く。
本、紙、帳面、俥代すべてで恰度四円五十銭だけつかつた。いつも金のない日を送つてゐる者がタマに金を得て、なるべくそれを使ふまいとする心! それからまたそれに裏切る心! 私はかなしかつた。
大丈夫なのかと、読んでいて心配してしまう。翌日は見舞金をくれた17名に礼状を書き、その翌日の2月1日には、奥さんが朝日新聞社に給料の前借りに出かけている。そして、この年の4月13日に26歳という若さで石川啄木は亡くなるのだ。