戦争で被災しなかった場所に
古い街並みが残っている可能性が
現在では売られていない貴重な書籍。私も図書館でようやく探し出した
ところで、昭和初期と昭和40年くらいまでの間といえば、戦争のあった時期です。元々は古い街でも、古い建物、区画が残っているかどうかは被災状況にもよります。そこでチェックしたのは「コンサイス 東京都35区区分地図帳 戦災焼失区域表示」(日本地図株式会社)。これは昭和21年に発行された原本を拡大復刻したもので、戦災焼失区域は赤色で、強制疎開区域は暗緑色で記されています。インターネット上では
国際日本文化研究センターの所蔵地図データベース内に
帝都近傍図として掲出されています。 また、
探検コムというホームページ内にも
同じ地図を分割したものが掲出されています。
これで見ると東京都心部から下町にかけての広いエリアは真っ赤に塗られています。が、詳細に見て行くと、被災を免れた地域もあります。いくつか、ピックアップしてみましょう。
昭和5年に建てられた東京都選定歴史的建造物となっているあんこう鍋のいせ源など古い建物が残る神田須田町界隈
現在の千代田区に当たる神田区、麹町区で被災しなかったエリアは現在の神田淡路町、神田須田町、神田多町あたり。ここは老舗の蕎麦屋、あんこう鍋屋などが残る界隈。やはり、被災の有無が古い街並みの存続に大きな影響があるようです。
月島辺りでよく見かける細い路地のある風景。建物自体が新しくなっていても、雰囲気は残されている
では、風情のある街としてこのところ、人気を集めている谷根千はどうでしょう?当時の浅草区、下谷区の地図で見ると、一部被災したエリアはあるものの、概ね被災を免れています。前出の
今村さんのカフェのある入谷のあたりも免れたエリアです。現在の中央区佃(かつての京橋区)のもんじゃ通りの裏手も下町の風情が残るエリアですが、地図で確認するとやはり被災していません。中央区では明石町、湊、入船あたりや日本橋堀留町、同小舟町、同人形町、同蠣殻町あたりも残されています。
周辺のほとんどの地域は焼失したものの、曳舟一帯だけは奇跡的に助かった
こうして見て行くと、被災しなかった街では比較的昔の風情が残されている可能性が高いということが言えます。ただ、終戦からすでに70年に近い歳月が過ぎており、神田須田町のいせ源のように、昭和初期の建物が残されているケースは希少。それでも区画がそのままであれば、比較的雰囲気自体は残りやすいのですが、場所によっては区画整理が進み、街そのものが新しくなってしまっている場所も少なくありません。たとえば、墨田区の曳舟駅周辺は比較的広範に被災しなかった地域ですが、それが逆に木造住宅密集市街地が残ることになってしまい、近年再開発が行われました。古い街並みが残っている楽しさは半面でそうした危険も内包しているというわけです。
メリーロード高輪にある老舗高輪とらや。戦後の創業だというが堂々たる外観
また、被災しなかったとしても区画が大きかったエリアは早くに転用されているケースが多いようです。たとえば、現在の港区(かつての芝区)の魚籃坂あたりから高輪、白金台あたりは一部被災した地域もあるものの、全体としては被害が少なかった地域。そのため、メリーロード高輪と呼ばれる商店街や通り沿いの寺院などに昔の面影が残されています。が、品川駅前のかつて竹田宮、北白川宮、朝香宮邸などのお屋敷があった場所はホテルに。その他のエリアでも公共施設やマンションなどに変わっている例が一般的です。
以下、東京23区でここまで取り上げなかった、
比較的被災しなかったエリアをピックアップしてみます。