(2006.04.05)

歴史から考える天皇制シリーズ、今回は明治天皇制が確立した大日本帝国憲法の制定プロセスを見ていきながら、明治天皇制の特徴をみていきたいと思います。あまり語られない重要人物、井上毅とは。

1ページ目 【天皇を「道具扱い」していた新政府幹部、反発する井上毅】
2ページ目 【明治天皇制に影響を与えた井上毅の天皇に対する考え】
3ページ目 【天皇を支えるスーパーパワーを必要とした明治天皇制の弱点】

【天皇を「道具扱い」していた新政府幹部、反発する井上毅】

明治初期、天皇は新政府の「道具」だった

玉
大久保ら新政府の指導者たちにとって、天皇は自分達の支配を正当化するための「玉(ぎょく)」つまり道具だった
初期の明治政府で主導権を握ったのが薩摩(鹿児島)出身の大久保利通でした。彼は江戸幕府の最末期、こんなことを言っています。「非義の勅命は勅命にあらず」。正しくない天皇の命令は天皇の命令ではない、と彼は言い切っているのです。

また薩摩・長州問わず、このころの志士たちは、天皇のことを「玉(ぎょく)」と呼び、「玉を握った方が天下をとる」などと言っていました。尊王攘夷運動(天皇を尊び外国を追い出す運動)から始まった討幕運動でしたが、最後には大久保たち討幕派の多くは天皇をなかば支配の「道具」として利用しようとしていたのでした。

そして明治新政府の実権を握ったのは大久保や長州(山口)閥のリーダー木戸孝允らだったわけですが、彼らはほとんど下級武士出身であり、日本を統治するためには彼らに足りない権威となる道具が必要でした。

その道具もまた、天皇になるわけです。そして岩倉具視や三条実美といった公家出身者を天皇という権威とのパイプ役にしたてて、薩摩閥・長州閥といった「藩閥政府」が誕生したのでした。

ちなみにこのような「道具」としての扱いを、若いながら明治天皇も敏感に感じていたようです。嫌気が差したのか、明治天皇は一時大久保ら薩摩・長州閥から距離をおき、宮中の保守派と接近していた時期もあったようです。

天皇の権威が問われた「征韓論論争」

さて、この大久保体制は早くも試練に立たされます。征韓論論争(朝鮮に出兵するかどうかで政府部内が二分した論争)が巻き起こした「明治6年の政変」です。

征韓論の評価はここではしませんが、とにかくいろいろな策動の末、天皇が下した「征韓延期」という決断に、西郷隆盛ら多くの征韓派首脳たちがそれを不服として、政府を去っていったのです。

建前上、「天皇親政」国家のはずが、実際には「天皇の決断」に不満を持ち辞めていく政府高官がいる……。というより、天皇の判断は本当の判断だと思われていない。

天皇の権威を利用して中央集権を図る大久保体制は、大きく動揺したのでした。その結果として起こったのが、西郷隆盛の起こした西南戦争を頂点とする不平士族の反乱だったのです。

これら一連の反乱を鎮めた大久保は、いよいよ本気で天皇中心の国家体制づくりにとりくもうとしたのですが……大久保はその矢先に暗殺されます。大久保なき後の政府は、長州出身の伊藤博文・肥前(佐賀)出身の大隈重信の2トップ体制に移行していきます。

明治政府の当初の構想は「イギリス型議院内閣制」

大隈は、イギリス的な議院内閣制を導入しようと考えていました。もちろん、政党政治がその前提となっています。この構想を支えたのが、啓蒙思想家の第一人者であり、大隈のパートナー、福沢諭吉でした。

こうした民間からの後押しもあり、大隈は政府部内でイギリスモデル導入を主張する中心的人物となっていきました。

さて伊藤も、実のところ最初はイギリス的議院内閣制に反対しませんでした。幕末すでにイギリス留学をしていた伊藤にとって、目指すべきは東西随一の文明国であるイギリスだったのでした。

そして、政党政治を導入することによって、逆に藩閥、特にライバルである手強い薩摩閥を抑えることができるとも考えていました。このことは、若くして病死した長州閥のリーダー、木戸孝允も同じように考えていたと思われます。

長州閥のナンバー2、井上馨(かおる)も同じような考えを持っていました。明治10年代のはじめ、自由民権運動が高まりつつある頃ですが、政府部内のトップは意外と自由主義的なイギリス式政党政治を構想していたのでした。

このことに危機感を抱いた人物がいました。それが、井上毅(こわし)でした。

危機感に燃える国学通の官僚、井上毅

熊本に生まれ、フランス留学の後に明治政府に登用された井上でしたが、彼は同時に国学(日本古来の文芸・精神を研究する学問)にも通じ、「政府きっての国学通」とまでいわれた人物でした。

そんな彼が、イギリス流の政治体制を受け入れることはできませんでした。彼はイギリス政治を「共和国のようなもの」と考え、天皇が存在する日本にはふさわしくないと考えます。

井上が手本にしようとしたのが、大日本帝国憲法のモデルといわれるプロイセン(ドイツ)モデルでした。君主大権の強いプロイセン政治こそが、日本の国情に合っていると考えたのです。

こうして彼は、徐々に岩倉などに接近し、大隈を中心とするイギリスモデルの導入をなんとかしてやめさせようと動きます。

明治14年の政変と大隈重信の追放

大隈重信
イギリスモデルを導入しようとした大隈は、伝統を重んじる井上の運動によって政府を追われることとなった(photo(c)東京発フリー写真素材集
このようななか、再び政府を震撼させたのが「明治14年の政変」でした。

北海道の開拓使長官であり政府高官でもある薩摩出身・黒田清隆が、特定の商人に開拓使資産を不当に安く払い下げようとした事件が明るみに出ました(開拓使払い下げ事件)。

これは、当時普及しはじめていた新聞で取り上げられ、大々的な政府批判キャンペーンが繰り広げられました。日本史上始めての、マスコミを通じたスキャンダル事件だったといえるでしょう。

そして、このキャンペーンに乗るかたちで自由民権運動も高揚。一方、大隈も福沢ら言論人らと組んで、払い下げ反対を主張、民権派からの人気を集めます。

そのころ井上は、「大隈陰謀説」つまり大隈がこれに乗じて政権奪取を図っているということをさまざまな人に吹き込み、とうとう2トップのもう1人、伊藤の抱き込みに成功します。

こうして大隈と大隈派は政府から追放、政府は「国会開設の詔」を発布、10年後の国会開設とそれまでの憲法制定を国民に約束することになるのでした。これが明治14年の政変です。

そしてこの後、井上は伊藤のもとで憲法制定に尽力することになります。次ページでみていきましょう。