衆議院の解散、そこにはさまざまなドラマがあります。衆議院の解散を通じて日本の戦後政治を振り返ることもできます。今回は日本国憲法が施行されてから、現在までの解散・総選挙についてお話していきます。
※ちなみに、日本国憲法施行前にも解散はありますが、今回は対象外としました。
1ページ目 【終戦直後~馴れ合い解散、バカヤロウ解散】
2ページ目 【60、70年代~黒い霧解散、ハプニング解散】
3ページ目 【80年代以降~死んだふり解散、嘘つき解散】
【終戦直後~馴れ合い解散、バカヤロウ解散】
「馴れ合い解散」(1948.12.23)
日本国憲法施行後初めての衆議院総選挙(1947.4.25)は、過半数を制する政党こそなかったものの、社会党が比較第一党となり、自由党(のち民主自由党)総裁吉田茂内閣は退陣、社会党委員長片山哲を首相とし、と保守中道の民主党らによる連立内閣ができました。しかし、炭鉱の国家管理をめぐって社会党の左右抗争が激化、民主党も加わって泥沼化します。これを嫌った片山首相は退陣、代わって民主党芦田均が、連立の枠組みはそのままで首相になります。
ところが今度は、政府要人が次々逮捕される「昭電疑獄」が発生、芦田内閣は崩壊します。これは、日本を占領していたGHQ内部の民政局(GS=社会・民主支持)と、参謀第2局(G2)との抗争が背後にあったといわれています。
さて、そのため民主自由党総裁・吉田に再度首相の座が回ってきました。しかし単独少数政権。なんとか解散して打開したい。
しかしこのころ、新憲法で内閣は不信任案可決なしに解散をできるのか。そういう議論が巻き起こっていました。
そして、GHQは、革新よりのGSに対し、冷戦をにらんで保守勢力との提携を主張する勢力が台頭。結局、GHQの「仲介」が入り、野党提出の内閣不信任案を与党含めてみんなで賛成、可決するという事態に陥りました。これが「馴れ合い解散」といわれるゆえんです。
総選挙の結果は、民主自由党が単独過半数を得る圧勝。社会・民主両党は大きく勢力を落とし、「吉田時代」の到来となるのでした。
「抜き打ち解散」(1952.8.18)
さて、こうして権勢を振るった吉田・自由党(民主自由党から改称)政権でしたが、占領が終わり、GHQによって「公職追放」されていた政治家たちが復帰してくると、事情が変わってきます。つまり、復帰してきた鳩山一郎を中心とする勢力が、吉田の退陣を暗に明に求め始めるようになるのですね。こうして再び政局は混乱してきました。
そこで、吉田は不意をつく形で解散を断行します。これが「抜き打ち解散」とよばれるゆえんです(吉田派幹部たちはそう呼ばれるのは遺憾だったようですが)。
これは、内閣が憲法上、自由に衆院解散を行えるということを示す先例となりました。このときその解散権をめぐり、衆院議員が憲法違反だと提訴しましたが、最高裁は「高度な政治的判断につき憲法審査不可」としました(苫米地事件)。
結果、自由党は過半数を維持しました。しかし、党の支援を得られなかった鳩山派64人は総選挙後、「民主化同盟」を作って反吉田色を鮮明に。民主化同盟が脱党すれば、自由党は過半数割れする情勢となりました。
「バカヤロー解散」(1953.3.14)
有名な、吉田首相の暴言に端を発した解散ですね。実は、このとき自体は、まるく収まっていました。このときの議事録をみてみましょう。まずは、吉田がバカヤロウと発言した直後から。
○西村(榮)委員 総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじやないか。(吉田国務大臣――なことを言うな」と呼ぶ)何が――だ。(吉田国務大臣「――じやないか」と呼ぶ)質問しているのに何が――だ。君の言うことが――だ。国際情勢の見通しについて、イギリス、チャーチルの言説を引用しないで、翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が――だ。答弁できないのか、君は……。(吉田国務大臣「―――――」と呼ぶ)何が―――――だ。―――――とは何事だ。これを取消さない限りは、私はお聞きしない。議員をつかまえて、国民の代表をつかまえて、―――――とは何事だ。取消しなさい。私はきようは静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある。
○吉田国務大臣 ……私の言葉は不穏当でありましたから、はつきり取消します。
○西村(榮)委員 年七十過ぎて、一国の総理大臣たるものが取消された上からは、私は追究しません。(以下略)(筆者注:「──」部分は削除された部分)
不適当ということで削除されてますが、ここに「バカ」「バカヤロー」が入るのでしょうね。とにかく、この場では丸く収まっています。
しかし、各党派の思惑から、これはたちまち「政局」になりました。内閣不信任案が提出、鳩山派は欠席して可決され、吉田首相は衆院を解散しました。鳩山派は脱党し「鳩山自由党」を作ります。
結局、自由党は第1党は守ったものの過半数は大きく割り込みます。決選投票でかろうじて吉田は首相指名を受けますが、求心力は大きく低下していきました。
翌年の鳩山の民主党結成、不信任提出の動きで追い詰められた吉田は、それでも解散する構えでしたが、側近たちに説得され、彼は退陣したのでした。
「天の声解散」(1955.1.24)
さて、吉田のあとを継いだ鳩山でしたが、鳩山の首相指名は民主党だけでは数的に無理で、左右社会党(このとき社会党もまた左右に分裂していました)の支持を得て実現したものでした。その見返りとして、鳩山は左右社会党に早期解散を約束していました。そこで、「天の声を受けた」と発言、首相は解散を実行しました。
結果、民主党は第一党になりましたが、意外と過半数はとれず。伸びたのは左右社会党で、合わせれば民主党に30議席あまりと迫っていました。左右社会党の思惑通りになってしまいました。
その左右社会党が同年に再統一。これに危機感を覚えた保守勢力は、鳩山を初代総裁とする自由党と民主党との合同政党、自由民主党を結党したのでした。ここに「55年体制」の幕があけたのです。