2ページ目 【宮家の急増から戦後の皇族大離脱まで、激動の皇族史】
3ページ目 【「旧皇族」11宮家のその後、そして現在……】
「宮家」はいつからできた?
長い天皇制の歴史のなかで、たくさん天皇の子孫が生まれるわけですから、どこかで「ここまでが皇族」という線引きをしなくては、いろいろ困ってしまうわけです。しかし、皇族が少なければ少ないで、皇統(皇族の血統)が断絶する可能性もなくはないわけです。
昔は一夫多妻制。にもかかわらず、たとえば源氏将軍は二代3人で絶え、足利尊氏の直系子孫も五代で、徳川秀忠の直系子孫も6代で絶えています。もっとも徳川家は「御三家」という制度を作っていたのでなんとかもっていたのでした。
このような事情のため、皇統の維持を確保するため、「宮家」という存在が必要だったわけです。中世から江戸時代にかけて、「宮家」の皇族は天皇の子でなくても親王の称号を受け、いつでも天皇になれるようになっていました。
※ちなみに世界史の教科書をみると、やったらめったら王朝が「断絶」していますね。キリスト教で一夫一婦制ですからやむをえません。
しかし、ヨーロッパの君主たちはなにかしらどこかの国の王家などと姻戚関係があったのですね。それでもっていたところがあります。それが20世紀になくなってしまい、ヨーロッパ諸国で女性君主が相次いで誕生した、ともいえます。
明治時代になって急増した「宮家」
しかし、江戸時代、朝廷の財政基盤は非常に弱く、たくさんの宮家を維持していくことはできませんでした。元禄時代までは、伏見宮・桂宮・有栖川宮の3宮家しかありませんでした。しかし、1718年、幕府は時の東山天皇の親王を当主とした宮家の創設に費用を出したため、宮家が1つ増えます。これが閑院宮です。これには、天皇家との関係を深めたいと考えた時の幕府実力者・新井白石の力があったようです。
さて、明治時代になって、皇族をして天皇制を固めようとした政府は、宮家をどんどん増設します。
特に、王子の多かった伏見宮邦家親王からは山階宮・聖御院宮・久邇宮・小松宮・華頂宮・北白川宮・東伏見宮が創設。久邇宮からはさらに賀陽宮・朝香宮・東久邇宮が、北白川宮からは竹田宮が創設されています。
また、邦家親王の弟、守脩親王は梨本宮を創設しました。
こうして多くの宮家が出揃い、宮家の当主たちは名目上にせよ政府や軍部の要職につくようになりました。その頂点に立ったのが戦後すぐに内閣総理大臣になった東久邇宮稔彦王だったりしたわけです。
皇族から「旧皇族」へ
しかし、先のページで述べたとおり、第2次大戦敗戦後の1947年10月、GHQの指令を受ける形で昭和天皇の弟の宮家以外のすべての宮家の人々が皇族を離脱させれることになりました。ここに、いわゆる「旧皇族」とよばれる人たちが生まれたのでした。
「雲の上から落っこちた」といわれた彼らの生涯は劇的なものがあったようです。なかでも大変だったのが先ほど紹介した元首相、東久邇稔彦氏で、喫茶店などさまざまな事業をやっては失敗し、新興宗教を作っては政府に解散させられ(直接命令されたわけではないですが)、晩年には戸籍をのっとられそうになりました。
ただ、竹田恒徳氏のようにIOC(国際オリンピック委員会)委員、JOC(日本オリンピック委員会)会長になり、活躍した人もいました。
「旧皇族復帰」の先例?
こうした「旧皇族」の人たちを、「皇族復帰」させて男子男系天皇を守るべきではないか、という声が、一部で上がっています。先例は、実はあるのです。平安時代の初期の宇多天皇です。この天皇は菅原道真を登用したことで有名な人です。
宇多天皇はお父さんが天皇になれる見込みもなく、自分も第七皇子だったため、源の姓をもらって皇族から離れていました。
しかし、そのお父さんが天皇にいきなりなり(光孝天皇)、さらに時の権力者藤原基経(初の関白)との関係が近いことから、皇族復帰し、やがて天皇になったのでした
「旧皇族」と現天皇家とのつながりは400年以上も前にさかのぼる
しかし、宇多天皇は天皇の実子。一度皇族を離脱したとはいえ、その期間も短く、天皇との関係も深いものがあります。いわゆる「旧皇族」のみなさんと今の今上天皇との血統的つながりは室町中期の天皇、後花園天皇にまでさかのぼらなければなりません(ただ、一部そうでない、という人もいることはいます。それは次のページでご紹介します)。
そのため、先般行われた皇室のあり方をめぐる有識者会議でも、旧皇族復帰について、この血縁関係の薄さが問題になりました。
次のページでは、戦後皇族から離脱した11宮家のその後、現在をみていきます。