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日本国憲法は「押し付け」か?

憲法改正論議、いよいよ高まってきましたね。そんな議論の中、しばしば出てくるのがアメリカによる「憲法押し付け論」です。それを考えるために、日本国憲法制定過程を見ていきましょう。

執筆者:辻 雅之

(2005.05.03)

日本国憲法の改正論議が盛んになってきました。ここで改正の理由としてよくいわれるのが「憲法押しつけ論」です。日本国憲法は占領統治下で押し付けられたもので不当だ、というものです。はたしてどうなのか、憲法制定過程を見ていきましょう。

1ページ目 【最初は憲法改正に消極的だった日本政府と意外な人物】
2ページ目 【憲法制定過程で生まれた「2つの草案」そしてマッカーサー草案】
3ページ目 【「憲法第9条」は自発的なものなのか、押しつけなのか?】

【最初は憲法改正に消極的だった日本政府と意外な人物】

アメリカの日本占領政策の基本は「天皇制存続」

1945年8月、ポツダム宣言を受け入れる形で連合国に無条件降伏した日本は、マッカーサー元帥率いるアメリカ軍主体の連合国軍総指令部=GHQの、占領統治下に入ることになりました。

このとき、かねてから日本研究を行い、日本占領政策を綿密に練っていたマッカーサーとトルーマン米大統領は、占領政策の基本方針で一致していました。つまり、それはマッカーサーが厚木に向かう飛行機の中で語った、この言葉に表されています。

「間違いのない占領……、その方法は単純(シンプル)だ、日本人にやらせることだ」(週刊新潮編集部編『マッカーサーの日本(上)』新潮文庫)

この、「日本人にやらせる」統治、これが日本政府を存続させたまま行う「間接占領」方式だったわけですが、この言葉の中には、「天皇制を大いに利用して占領統治を安定させる」という方針も、日本研究の成果として、含まれていたのでした。

つまり、天皇制は廃止するよりも活用した方が占領統治しやすいし、対米感情も向上する。また、アメリカが本当は嫌だった本土決戦を回避する「聖断」を下した昭和天皇を戦犯にすることは、後々大きな禍根を残すだろう、そういう考えもありました。

最初は憲法改正を重視していなかった日本の政治エリートたち

さて、当の日本人は、無条件降伏したからといって、憲法改正まですることになるとは、最初は、知識人やエリートたちも、あまり考えていませんでした。

考えていたとすれば、一人目として、日本が敗戦の反動で一気に共産化することを恐れていた近衛文麿(日中戦争開戦時の首相)と、ポツダム宣言を読んで、こりゃ暗に憲法改正を要求しているなと考えた、芦田均(後の首相)くらいだったようです。

芦田が、この約束を履行するためには憲法改正が必要だと考えたのは、ポツダム宣言第10条にありました。

吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民を滅亡せしめんとするの意図を有するに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加へらるべし。日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍(しょうがい)を除去すべし。言論、宗教及び思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せられるべし。(下線筆者による。杉江栄一編『現代国際政治資料集』法律文化社)

こんなことがあり、とにかく近衛は改憲に向けていきなり突っ走りはじめますが、芦田は様子見、というか、実際にはそれどころではなく、このころ持ち上がってきた政党復活の仕事に忙殺されることになります。

しかし芦田は、後に幣原内閣の一員として、そして衆議院特別委員会の委員長として、憲法制定過程に大きく携わることになります。

憲法改正が具体的な政治課題に

さて、先にも書いた通り、日本の指導者の多くは、ポツダム宣言の重要性、特に憲法改正の必要性をあまりしっかり認識していなかったようで、敗戦直後成立した東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は、治安維持法などの制度を残そうと考えていました。

しかし、このころからイギリスなどが「日本の民主化は遅れている!」などとクレームをつけるようになり、GHQは、「10.4覚書」を内閣に叩き付けます。つまり、治安維持法などの法令をとっとと廃止しろ、ということだったわけですね。

これにびっくりした東久邇宮内閣は総辞職し、この後を受けた幣原喜重郎(戦前の外相、英米協調の『幣原外交』で知られる)内閣の下で、それらは実行されるわけです。そして、憲法改正の必要性もクローズアップされるわけです。

「近衛憲法」の構想と挫折

しかし、先にも書きましたが、改憲に向かって一歩先に出たのは、近衛のグループでした。

近衛は、戦争末期から、すでに敗戦を前提とし、このままでは日本は共産革命に陥ってしまうという危機感をもっていたようです。昭和天皇にも、このように上奏しています。

つらつら思ふに我が國内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。(『近衛公上奏文』引用元は前掲書『現代国際政治資料集』)

近衛は、GHQとたびたび接触し、憲法改正の試案を受け取り、これをもとに佐々木惣一(京大教授)らを中心に草案を起草させ、自らは昭和天皇に上奏して「内大臣府御用掛」なるものに任命され、憲法改正を行うことになりました。

俺たちを出し抜いてこれはどういうことじゃい、と思った幣原は、急遽政府に、松本烝治を委員長とする「憲法問題調査委員会」(通称:松本委員会)を作り、憲法問題のイニシアティヴを政府の側に引き戻そうとしました。

結局、近衛の活動はいつのまにかGHQから見放され、11月下旬に内容を天皇に奏上して活動は終わり、さらに近衛自身がA級戦犯に指定され、12月に近衛が自殺することによって、完全に近衛改正は幻に消えたのでした。

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