第70代内閣総理大臣、鈴木善幸元首相が7月19日御逝去されました。約二年間という短い政権期間でしたが、日本政治にあたえたインパクトは小さくありません。検証します。
1ページ目 【「三角大福中」の大抗争のあと、突如白羽の矢が立った鈴木元首相】
2ページ目 【「和の政治」で自民党の抗争を終結させ、行財政改革に手をつけた鈴木政権】
3ページ目 【鈴木流「和の政治」が今の自民党政治に残したものとはなにか考える】
【「三角大福中」の大抗争のあと、突如白羽の矢が立った鈴木元首相】
●こちらも要チェック! 政治についての基本知識と基本用語
鈴木善幸元首相とはどんな政治家か
鈴木善幸元首相は、1947年、最初は社会党から立候補し衆議院議員となりました。その後、現在の自民党の流れを組む民主自由党に入党、以来自民党議員として頭角を表していきます。派閥は、「所得倍増計画」をうちだし高度成長の先べんをつけた池田勇人元首相の派閥「宏池会」でした。宏池会はその後大平派、鈴木派、宮沢派と受け継がれ、現在は堀内派と旧加藤派がこれを名乗っています。
はやくも1960年には池田内閣で郵政大臣として初入閣、その後官房長官などを歴任します。官僚出身が多かった当時の自民党、とりわけ宏池会にとっては純粋な党人=官僚出身政治家に対してその他の政治家をこう呼ぶ、であった鈴木元首相は、特に選挙対策的に貴重な存在であったようです。
その後、大平元首相の懐刀をつとめ、大平派の大番頭といわれるようになりました。
「三角大福中」のはげしい党内抗争
そんななか、自民党で巻き起こったのがいわゆる1970年代の「三角大福中」のはげしい抗争です。発端は、戦後最長政権(約7年半)をほこった佐藤栄作内閣のあと、ポスト佐藤をめぐってはじまった田中角栄元首相と福田赳夫元首相の「怨念の対決」でした。ポスト佐藤として佐藤元首相の意中にあった福田元首相を、田中元首相が裏から議員たちに手をまわし、いつのまにか佐藤派をのっとり、佐藤政権をついだのです。
これに対する福田元首相の怨念から始まった抗争。加えて、金権疑獄で政権を去った田中元首相を、ロッキード事件で逮捕まで追い込み田中元首相の怒りをかった三木元首相。
これに、福田派に近い中曽根派、田中派に近い大平派が加わり、自民党は主流派(田中・大平派)、反主流派(福田・三木・中曽根派)の大抗争に発展していくのですね。
抗争は、ようやく政権をとった福田元首相を、田中派の全面バックアップでわずか二年で引きずり降ろした大平元首相が政権をとったことで、ピークを迎えます。
反主流派は1979年、大平再選阻止をはかって「自民党をよくする会」を結成、自民党の会場を占拠し福田元首相を首相候補に決定(このとき、つまれたバリケードをどんじゃらぶちこわしていったのがあのハマコーさんでした)。
そして国会の首相指名選挙で堂々と反主流派は「福田」と書いて投票。結果は反主流派の負けでしたが、怨念はさらにつのりました。これがいわゆる「40日抗争」です。
そして1980年、社会党がいつものように参院選決起のためにダメモトで提案した大平内閣不信任案の採決を、反主流派が欠席。そのため大平内閣は不信任され、参議院選挙と同時に衆議院解散・総選挙となったのでした。まさに自民党分裂です。
しかし、自民党は選挙で大勝
この直後、大平元首相は倒れ急死します。主流派は大平元首相の「弔い合戦」として選挙戦を戦います。一方、思いがけない衆参ダブル選挙で混乱する野党陣営。結果、分裂状態にあったはずの自民党が圧勝します。急逝した大平元首相への同情票が集まったともいわれますす。
また、衆参ダブル選挙となったことで集票能力にまさる自民党が野党を突き放したともいわれます。いずれにせよ、自民党は衆議院280議席と、かつてない多数を確保します。
ここでいきなり、三角大福中の抗争はいったんストップします。こんなに自民党勝ったんだから、抗争はちょっとやめよう。大与党として、やるべき政策を進めよう、と。
ここで浮上したのが、大平派の大番頭、鈴木元首相なのでした。