散歩/江戸風情を探す散歩ルート

鰻を食べて、新吉原界隈を歩く(2ページ目)

江戸落語には吉原の話がたくさん出てくる。遊女三千人といわれた往時は想像するしかないのだが、驚いたことに古地図を見ながら歩くと吉原大門あたりの道が今と違いがなかった。

増田 剛己

執筆者:増田 剛己

散歩ガイド

ぶらぶら歩いて吉原まで

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地下鉄の三ノ輪駅。かなり古い駅の入り口であった。
「尾花」を出て、そのまま線路沿いに歩く。
住宅街を抜け、昭和通まで出ると浄閑寺がある。

1855年(安政2年)の大地震で吉原の遊女たちの多くが投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになったそうだ。なんとも悲しい名前である。この寺をしばしば訪れたのが作家の永井荷風だ。その縁から荷風の詩碑が境内に建てられたとのこと。
名もない遊女たちの悲しい人生に思いを馳せる。

昭和通と明治通りが交差するのが、東京メトロの三ノ輪駅である。
昭和通から、南方向に歩く。
住居表示は竜泉になった。
このあたりで、かつて樋口一葉が雑貨屋を営んでいた。その縁で、一葉記念館がある。
中を見たいが、先を急ごう。
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吉原という住所は今はない。交番などにわずかに残るだけだ。
住居表示が「千束」にかわったあたりから、かつての吉原の地域に入る。
今はソープランドが建ち並ぶ地域である。
1966年までは「新吉原」という住所であった。
「新」とつくのは、かつての吉原は日本橋にあったからである。

江戸幕府公認の遊郭として、1617年、日本橋葦屋町(現在の日本橋人形町あたり)に開設された。最初は「葦原」(あしはら)と呼ばれていたが、「悪し」に通じるとして嫌がられ、「吉原」になっという説もある。
1657年の明暦の大火で吉原遊郭が消失したのを期に浅草の田んぼに移された。
それで、こちらが新吉原、日本橋のほうを元吉原と呼んだそうだ。
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