◇長澤芙美・創作らんちう小咄 その壱
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水槽でらんちゅうを飼っている。水の中をへなへなと泳ぐらんちゅうを見ていると、何と云うのか、哀れな気分になってくる。ところで、海馬、という脳の器官がある。ここは記憶をつかさどると言われていて、大抵左右ふたつずつある臓器のなかで、海馬はひとつしかない。魚類はこの海馬がとても小さいそうだ。だから金魚を小さな水槽に入れても、端から端へ行くまで記憶が持たない。水槽の端から端まで。これが彼らの時間の全てである。
水槽の端から端までの記憶で、繰り返し生きる彼らの幸いとは何だろう。そう思っていたら、らんちゅうの身の上話でも作ってやりたくなった。
あはれ、らんちう宴を知らぬ「木曽の川へ流されし話」
信濃の国司が宴の余興に聞いたとな。
らんちうという金魚、
背鰭なくかむろには大きな瘤があるという。
そのめずらしきらんちう、手に入れたらば信濃一。
京でも江戸でも探し出せ、金子は湯水のごとくなり。
らんちうとやら、宴の釆女(うねめ)の代わりとせん。
はたして泡を吹いて急き立てる始末。
ここは美濃の国ざかい。
京より信濃の、大事な大事なつづらの荷。
中はなにやらあやしい水のおと。
雲助佐吉、あけるなあけるなといわれても、
そうはいかぬがひとの人情。
人足衆が寝た後に、
そろりそろりと開けてみた。
つづらの中に、桐の箱。
箱の中には、青い水瓶。
瓶のそこでぢっとしていたのは、
たった一匹、更紗の金魚。
なんでえ金魚か、つまらねえ。
いやまて、こいつは様子がおかしいぞ。
背びれを切られ、瘤が出るまで殴られて。
こんなものを後生大事に寄越すとはなんたる変態。
よかろうこの雲助佐吉が逃がしてやろう。
もとのみやこは戻れぬが、木曽の川も好い水ぞ。
時にして丑か寅か、佐吉はらんちうを木曽川へ流した。
知っているのは美濃の上弦の月だけである。