これぞ芸人一家!
こぶ平時代の苦悩と林家正蔵襲名の思いが詰まった、噺家・林家正蔵の全てが分かる一冊。 |
まさに、芸能・芸人一家の鏡。これに並ぶ、一家は石原一家くらいでしょう。
タレントこぶ平時代
1970年頃にはすでに子役としてテレビドラマに出演していました。子供の頃は別段に噺家になるとは思っていなかったようですが、彼のインタビューや記事によると中学時代に「古今亭志ん朝へ憧れ」と父・三平の背中を見て、噺家になることを決意したようです。そして、1978年に正式に父・三平に門下に入門し、林家こぶ平となります。しかし、入門後、ほどなくして父・三平が急死してしまい、こぶ平は三平の弟子である笑点でおなじみ「チャラ~ン」の林家こん平の門下となります。
爆笑王・三平の子であり、家族の多くが芸能人となればテレビ業界がほっとくはずがありません。それゆえ、入門後も噺家というより、ドラマ、バラエティ番組やアニメの声優などテレビタレントとしての活動が目立つようになります。
そして1988年、真打昇進を果たします。この時代でも彼は忙しいスケジュールの中、寄席や落語会に出演し自らの芸を磨き続けたはずですが、噺家というよりテレビタレント・こぶ平としての地位を確立します(というよりされてしまう)。たぶん世間のほとんどの人が彼が噺家であるという印象は持たなかったかのでは?
持って生まれた華がある
今、振り返るとタレントであり、三平の息子というフィルターで彼を見すぎていたような感が否めません。さらに、客も噺家ではなくタレント・こぶ平、さらに父・三平のモノマネを期待してしましたしね。一人の噺家としてこぶ平を評価しようとする気風は少なかったことは確かです。彼が高座に上がると、芸能一家に育った影響や普段、テレビタレントとしての雰囲気がでるのかもしれませんが、高座がパッと明るく華やぎました。これはもう、一種の特徴であり才能です。噺の上手い下手より、この辺をもっと評価すべきだったような気がします。
このなかなか噺家として認められない現状に彼はとても悩んでいたことでしょう。しかし、この悩みがタレント・こぶ平から噺家・こぶ平への成長を手助けしたのかもしれません。
そして、悩みながらも噺家としても腕を磨き続けた結果、彼にとって一大転機が訪れます。