中国の【端午節】は旧暦5月5日"
ちまきを食べるのは共通している
同じ「端午」の言葉を使うことから、やはり中国の暦からのルーツを感じさせますが、日本の「端午の節句」と中国の【端午節】はどこが似ていてどこが違うのでしょうか?【端午節】「端午の節句」両方について知ることで、中国人の友達の話題の種も増えるかもしれませんね。
※「端午節」「端午の節句」の起源については諸説あり、そのすべてをご紹介することはできません。諸説ある中から、ガイド個人が有力と思われるものを選んだ、個人的見解をもとに記事を作成しておりますことをご理解・ご了承願います。
<目次>
端午節は「こどもの日」ではない!中国の「こどもの日」は6月1日
中国の「こどもの日」にあたる【児童節】[Er2tong2jie2]は6月1日です。「児童節」を中国政府が定めたのは2002年。まだ歴史の新しい祝日です。それに対し「端午節」は、春節・中秋節に並び、中国の三大伝統節句とされています。つまり、日本の「端午の節句」は、中国の端午節が伝わったものであるけれど、日本の習慣の中で独自なアレンジが加わって発展するうちに、「こどもの日」という意義も加わったことがうかがえます。
それでは、中国の端午節は、いつ、どのように生まれたものでしょうか?
「端午」という言葉のそもそもの意味は?
「端」には「はじめ」という意味があります。「端午」は「午のはじめ」のことであり、十二支を各月にあてはめた時「午の月」は5月になります。ということで「端午」は「5月の初旬」という意味なのです。「端午」の【午】[wu3]は、数字の【五】[wu3]と同じです(日本語も「ご」の発音は同じですね)。おそらく、暦が生活の中に浸透しつつあった素朴な時代に、5月の初旬の5日はゾロ目で語呂もいい……、ということで、やがて「端午」という言葉が5月5日に結びついていったのではないかと思われます。
それでは、中国の人々は「端午節」をどのように過ごしているのでしょうか?
中国の端午節にはドラゴンボートのレースが行われる
【端午節】に行われる有名な行事といえば、ドラゴンボートレースです。「ドラゴンボート」とは、国際大会も開かれているスポーツ競技です。
舵取り1名、太鼓手1名と18~20人の漕手からなる細長いボートで、龍を模した飾りが施されています。
中国語で【龍船】[Long2chuan2]と言います。
中国発祥のスポーツであるドラゴンボートレースは、春秋戦国時代の政治家かつ詩人であった屈原の入水自殺がきっかけとなって生まれました。楚の政治家であった屈原は、正義感の強さと愛国心で多くの人の人望を集めていましたが、その反面、王に自分の忠告を聞き入れられなかったり、同僚の陰謀で地位を追われたりなど、不遇の人でもありました。
中国古典文学の名作として現在も読み継がれている「楚辞」の「離騒」は、屈原が国を憂い、その想いが届かず世を儚んでいる心情が詠われています。そしてその詩のように、彼は楚の将来を儚んで5月5日に入水自殺してしまいました。
人々は屈原の遺体を探すために、川に船を出しました。しかし遺体は見つかりません。屈原の体が川の中で魚の餌になるのはしのびないと考えた人々が、船から太鼓を叩くなど大きな音を立てて魚を追い払いました。
それ以降、5月5日は屈原を偲んで川に船を出すという習慣が生まれ、それがやがてドラゴンボートレースとして発展することとなったのです。
現在では、公式なスポーツとして行われるドラゴンボートレースと、民俗的行事のお祭りとして行われるドラゴンボートレースがあり、旧暦5月5日には中国各地で様々な形で楽しまれています。
そんな中国の【端午節】で食べられるものといえば?
端午節には粽(ちまき)を食べます
屈原の体が魚に食べられないように、という配慮から、大きな音を立てて魚を追い払ったと同時に、魚が空腹にならないように(または、屈原への供養のため)川へちまきを投げたという言い伝えがあります。ちまきは中国語で【粽子】[Zong4zi]です。
米を竹などの植物の葉で包み、それをゆでたり蒸したりすることで植物から出る灰汁が防腐剤代わりとなる保存食でした。中国では古い時代からある食べ物で、各地方や民族独特の工夫が凝らされて進化し、現在も中国各地に「ご当地ちまき」があります。旅先の屋台などで、できたてのちまきを食べたことのある人もいらっしゃることでしょう。
ちまきは、平安時代には日本に伝わっていました。それ以降、中国のちまきに近いお弁当系ちまきが伝わっているほか、独自アレンジで生まれた羊羹やお饅頭に近い和菓子系ちまきがあります。個人的に、お弁当系ちまきは「中華料理」、和菓子系ちまきは「和菓子」というイメージがありますが、いかがでしょうか?
日本は、中国からちまきを食べる習慣を取り入れた上に、柏餅も食べるという習慣を加えて発展しました。これは、「端午の節句」が「こどもの日」に変わって行った背景が影響しています。
屈原の追悼だけでなく、端午節にはある願いが込められていて、それが日本では「こどもの日」という方向へ発展することとなったのです。
端午節は無病息災を願う行事
「端午節」=「愛国詩人屈原を偲ぶ行事」であることをご紹介しましたが、もうひとつの側面として、無病息災を祈念する行事であることも忘れてはなりません。中国ではこの時期に薬草を摘み健康を祈願する習慣がありました。中でもよもぎや菖蒲は邪気を払う力があるとされ、菖蒲酒を作って飲んだり、よもぎで人形を作って飾ったりなどしていました。
端午節は、日本には奈良時代には既に伝わっていたと考えられていますが、日本に伝わったのは無病息災を願う行事としてでした。それは現在でも、お風呂に菖蒲の葉を入れて菖蒲湯にするなどの形で伝わっていますね。
まずは貴族が薬草を贈り合ったり、菖蒲を飾ったりという「端午の節句」が行われていたのですが、それがやがて武士の台頭とともに鎌倉時代頃から色合いが変わっていくのです。
日本の「端午の節句」の意味や目的とは
無病息災を願う行事に
武士にとって大切なことは、武芸で名を挙げ、家名を守るべく立派な後継者を育てていくことです。こういった日本の社会の願いが反映し、「端午の節句」は武家の男子のお祝いとして定着していきました。五月人形が鎧兜であること、そしてそれらと一緒に菖蒲を飾ることは武家社会の中で形が固まったのです。
柏餅を食べるようになったのもこの流れの中で発生した習慣であると思われます。柏の木は、新芽がちゃんと育ってから古い葉が落ちます。そこから「家が断絶しない」「子孫繁栄」をイメージさせる縁起のよい植物であるとして武家社会で重宝されたのです。
とはいえ、武家社会の中で発展していった端午の節句の縁起物の中にも、中国からの影響は見てとれます。
鯉のぼり=これは「登竜門」という言葉を産んだ中国の故事成語にちなんだものです。
日本でも「鯉の滝のぼり」としてなじみ深い言い伝えですが、「川の急流にある『竜門』を登り切った鯉は竜になれる」ということで、立身出世の象徴です。立身出世の象徴から、やはりこれもお家繁栄の縁起物として、家族が増えるごとに鯉の数も増やして楽しまれるようになりました。
端午節は、長い歴史の中で様々な願いが込められていった
【端午節】「端午の節句」にまつわる様々な伝承をご紹介してきましたが、個人的な意見としては、まず「健康祈願」が主となる季節の行事が発生し、屈原の命日と時期的に近かったのと、日づけの語呂がよいことから両者の行事が合体したのではないかと思います。古い時代の人々には十分な医療設備もなく、薬草は貴重品であったろうと思います。欲しい時にすぐ手に入るというものではないですから、薬草を摘む仕事は、おそらく最優先の作業として集落総出で行われていたのではないかと思われます。
やがて、集落のみんなが集まれば、何かイベントごとが欲しくなる……。あちらの集落、こちらの村も同時期に総出で集まっているとなれば、ただ追悼の儀式で船を出すだけでなく、漕手の技量を競ってみたくなる……、そんな流れを想像しました。
また旧暦の5月5日頃は、春の農作業が一区切りつき、入梅を前にする季節の変わり目でもあります。こうした時期は特に体調を崩しやすく、また、梅雨の影響で衛生環境も悪化します。
これらの状況を考えると、「薬草を確保する」「無病息災を願う」のは、現代に生きる我々が想像する以上に切実なものであったと思われます。
日本の場合は、それが「せっかく授かったお世継なのだから健やかに成長して欲しい」という想いへ、そして武家社会のお家存続の願いとマッチして、今のような方向へ流れていったのではないかと思います。
中国の暦のことを知り、中国の暦の文化を受け取った日本がどのようなアレンジを施していったのかを知り、それらについていろいろと考えをめぐらせるのは面白く、興味がつきませんね。
中国人の友人との話題の種にしてみたり、日中両国の文化や習慣を知る種にしてみたり、あなたなりに暦の雑学を楽しんでみてください。
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