世界遺産/ヨーロッパの世界遺産

バチカン市国:カトリック10億人の聖地(2ページ目)

バチカン市国は世界最小の国であり、生まれ育った国民を持たず、世界で唯一国土のすべてが世界遺産に登録されている不思議な国。それでいて面積の大半を占めるサン・ピエトロ大聖堂やバチカン美術館は世界屈指の観光名所でもある。今回は、キリスト教カトリックの総本山であり、ルネサンス・バロック期の巨匠たちが築き上げた芸術都市でもある世界遺産「バチカン市国」の見どころや歴史を紹介する。

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

普通の国じゃない! バチカン市国ってなんだ?

サン・ピエトロ大聖堂のクーポラから見下ろすサン・ピエトロ広場

サン・ピエトロ大聖堂のクーポラから見下ろすサン・ピエトロ広場。その先は和解の道を経てローマのサンタンジェロ城へ続いている

バチカンは歴史上、国家として認められたり、認められなかったりを繰り返してきた。特にイタリアを統一して1870年にローマを支配したイタリア王国はバチカンを国家として認めず、対立を続けてきた。この方針が変わるのが1929年のラテラノ条約で、イタリアの首相ムッソリーニはこの条約によってバチカンの独立を認めた。この年が現在のバチカン市国の事実上の独立年となっている。

「市国」というように1つの都市がそのまま国家となる都市国家で、したがってバチカン市がそのまま国となり首都となっている。領土の面積は0.44平方キロメートルと世界最小で、0.51平行kmの東京ディズニーランドや0.49平方キロメートルのディズニーシーより1~2割ほど小さい。

国土のすべてが世界遺産「バチカン市国」に登録されているほか、隣接するローマ市内にも飛び地がいくつかあり、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂やサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂は世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂」に登録されている。
和解の道から見たサン・ピエトロ大聖堂

和解の道から見たサン・ピエトロ大聖堂。道の名は、イタリアのムッソリーニがバチカンの独立を認め、この道を築いたことからきている

国家といってもバチカンで生まれ育った民衆がいるわけではない。世界中から集まってきたカトリックの聖職者や関係者が800人ほどいて、これが国民だ。聖職者たちはバチカンに赴任すると国民となり、任期を終えて元の国に帰ると国籍もその国に戻る。

国を治めているのは教皇で、教皇は枢機卿(すうききょう)と呼ばれる位の高い聖職者たちがコンクラーベという選挙で選出している。現在の教皇は2013年に選ばれたフランシスコ第266代教皇だ。

教皇を守るための軍隊は存在せず、スイス人衛兵と市国警察が取り締まりを行っている。 

ローマ教皇の住居、バチカン宮殿

サン・ピエトロ広場の列柱廊

サン・ピエトロ広場の列柱廊。長径200m、短径165mの楕円広場の周りを284本の柱が取り囲んでいる

バチカンの主な建物はふたつ、バチカン宮殿とサン・ピエトロ大聖堂だ。

カトリックのトップである教皇が暮らしているのがバチカン宮殿で、内部は住居のほかに美術品を収蔵するバチカン美術館、礼拝の場であるシスティーナ礼拝堂などで構成されている。
バルダッキーノと聖ペテロの司教座

手前はペテロの墓の上に立つ『バルダッキーノ』、後ろは教皇の椅子『聖ペテロの司教座』。いずれもベルニーニの作品

4~5世紀にペテロの墓の上に建てられた教会堂の周囲に築かれた住居がはじまりで、当時は修道院や家々が集まっていたようだ。

その後、教皇はローマにあるラテラノ宮殿で暮らすようになったが、教皇のバビロン捕囚(1309~1377年の間、教皇の座はフランスのアヴィニョンに遷されていた)のあと、グレゴリウス11世がローマに帰還した際に宮殿として整備したのがバチカン宮殿だ。

住居をはじめとする中心部は残念ながら非公開で、一般の旅行者には開放されていない。システィーナ礼拝堂、バチカン美術館については後述する。
  • 前のページへ
  • 1
  • 2
  • 3
  • 5
  • 次のページへ

あわせて読みたい

あなたにオススメ

    表示について

    カテゴリー一覧

    All Aboutサービス・メディア

    All About公式SNS
    日々の生活や仕事を楽しむための情報を毎日お届けします。
    公式SNS一覧
    © All About, Inc. All rights reserved. 掲載の記事・写真・イラストなど、すべてのコンテンツの無断複写・転載・公衆送信等を禁じます