2ページ目 【イングランド議会主導で行われた「連合王国」の成立】
3ページ目 【1999年に復活したスコットランド議会、独立派政権誕生】
【イングランド議会主導で行われた「連合王国」の成立】
イギリス市民革命とスコットランド
スコットランド王・ジェームズ7世(イングランド王としては2世)は、イングランド議会によって追放されてしまう。 |
その反発は1639年反乱という形であらわれ、チャールズは戦費調達のために議会を召集しますが、これが専制君主であったチャールズ糾弾の場となり、やがてピューリタン革命の勃発、チャールズの処刑と共和制の成立をもたらしてしまいます。
「スコットランド王」がイングランド人によって処刑されるというできごとはスコットランド人を憤激させました。スコットランドはチャールズの息子チャールズ2世を国王にしますが、革命の主導者クロムウェルはこれを許さず、スコットランドを侵略、チャールズは国外に逃亡します。
クロムウェルの死後、戦争ばかりで評判の悪かった共和制は崩壊し、チャールズ2世が帰国して元通りスコットランド・イングランド両国王として即位します(王政復古)。
しかしチャールズ、そしてその弟のジェームズ7世(イングランド王としては2世)もまた専制君主としてふるまいイングランド議会と対立、名誉革命が勃発してジェームズは亡命、ジェームズの娘メアリ2世とその夫でオランダ総督だったウィリアム2世(イングランド王としては3世)が共同君主として迎えられます。
こうして、スコットランド王家の血は残るものの、イギリスはイングランド中心の政治体制になっていったのでした。
「連合王国」の誕生
やがて連合王国が成立、ドイツ人が国王に迎えられる。青数字はスコットランド王の、赤数字はイングランド王としての、□数字は連合王国国王としての順番。 |
さて、ウィリアムとメアリには子がおらず、メアリの妹アン(のち女王)の子はみな健康状態が悪かったため、王位継承問題が発生しました。もっとも、亡命したスコットランド王家の直系ジェームズには子がいたのですが。
ウィリアムと議会は、1700年に「王位継承法」を作りました。これは今でも有効で、イギリス憲法の一部とされています。
これによると、王位継承資格はジェームズ6世(1世)の孫娘であるソフィアの一族でかつプロテスタント(配偶者も)であることと規定されました。ソフィアはドイツのハノーヴァー侯と結婚していたので、これから先は「ドイツのハノーヴァー侯家」が「スコットランド王家」に代わってイングランド・スコットランド両国王になる、というような規定だったわけです。
まさにイングランド議会の優位を示すもので、これ以降、「スコットランド吸収」の流れは加速して行きます。
1705年、イングランド議会がスコットランドからの貿易を制限する法律を作ってから、事態は動きます。慌てたスコットランド議会は、イングランド議会と交渉し、それは結局、両議会の合同(といっても実質的にはイングランド議会による吸収)の協議になっていきました。
合併反対派もイングランド議会によって続々と買収され、結局1707年、スコットランド議会はイングランド議会との「合同」を議決、ここにスコットランド議会は消滅し、スコットランドは独立国から「連合王国」の一部に転落してしまうのです。スコットランドに割り当てられた合同議会の議席は、わずか16にすぎませんでした。
ジャコバイトの反乱
*アイルランド国旗とされた旗は、実際にはアイルランドの有力諸侯のもので、現在アイルランドや北アイルランド住民がこれを使用しているわけではない。 |
スコットランドの北部、山岳地帯の多い地域をハイランドといい、南部をローランドということがあります。このハイランドに、「ジャコバイト」とよばれる人々がいました。
彼らは追放されたジェームズの直系を正統のスコットランド王と考え、スコットランドの独立を主張する人たちで(ジェームズをラテン語読みすると「ジャコバイト」)、「合同」に猛反発していました。
1714年、いよいよハノーヴァー家からジョージ1世が国王として迎えられると、翌年ジャコバイトたちはジェームズ7世の息子ジェームズ・フランシスをスコットランド王ジェームズ8世として擁立すべく、反乱を起こしました。
しかし反乱は失敗し、これ以降大きな武力抵抗はおきなくなりました。
次ページでは、スコットランドの「現在」についてみていくことにしましょう。