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安倍首相の祖父・岸信介とは?(2ページ目)

安倍政権が誕生して1か月あまり。安倍首相が尊敬するとされる彼の祖父・岸信介の名前もいろいろと出るようになっています。そこで今回は、岸信介という人物がどのような政治家だったのかみてみることにします。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【岸信介と「国家社会主義」との関係】
2ページ目 【戦時中の統制経済を担った岸信介】
3ページ目 【首相に上り詰めた岸の足をすくったものとは】

【戦時中の統制経済を担った岸信介】

「革新官僚」岸の活躍

官庁
岸は「革新官僚」として活躍し、その手腕を陸軍にみこまれるようになった(写真はイメージ)
1930年、世界恐慌の影響を受けた深刻な恐慌が日本を包むなか、岸はドイツをモデルにした産業合理化運動の推進役として大きく働きます。この国家社会主義的色彩の濃い運動は、翌年に重要産業統制法という法律を生み出します。

この法律起草の中心となったのも岸でした。こうして岸は政党内閣時代から早くも、国家社会主義を目指す若き「革新官僚」として、頭角を現わしていったのでした。

こうして岸は1932年の「5・15事件」で政党内閣が崩壊した翌年に商工省の文書課長に、35年には工業局長に就任。エリ-ト官僚としての出世コースを着実に歩んでいました。

ところが36年、広田内閣の商工大臣に民政党の川崎卓吉が就任したことで、岸に転機が訪れます。政党内閣時代が終わったとはいえ、まだまだ政党の力は侮りがたいものがありました。川崎は政治的意図から岸ら商工省中心官僚の一掃を図り、そのため岸らは商工省から去ることになります。

この岸を待っていたのが陸軍でした。満州事変によって建国した日本の傀儡(かいらい)国家、満州国の経営に岸を当たらせようとしていたのです。こうして岸は満州に渡ります。

満州で出会った岸と東条英機

満州で岸は産業計画の最高責任者となり、満州は「国家社会主義」の大きな実験場となります。満州の豊富な資源がそれを実現味あふれるものにしました。

彼の活躍はそのうち東京にも伝えられ、ほどなく「岸コール」が起こるようになります。こうして1939年、岸は商工省に復帰、商工次官に就任します。

この満州での3年間で、岸はさまざまな人脈を築きました。なかでも重要だったのが、満州を事実上治めていた「関東軍」の主要メンバーたちとの交流でした。

特に岸が関係を深めたのが、当時関東軍の参謀長だった東条英機でした。このときの関係が、その後の東条内閣への岸入閣へ大きく影響することはいうまでもありません。

東条内閣への入閣

こうして岸は統制経済を率いる革新官僚のリ-ダ-的存在となりました。省庁横断的に「月曜会」という革新官僚の会が作られましたが、その中心となったのが岸であることはいうまでもありません。

このような岸の「政治力」はしばしば反発を招き、彼の次官辞任にまで発展するようなあつれきも起こすのですが、1941年、東条が首相になると岸は商工大臣として入閣、いよいよ政治の表舞台に姿を現わすことになります。

また、翌年の総選挙(大政翼賛会推薦以外の候補に政府が露骨な妨害を行ったため「翼賛選挙」といわれる)で当選、衆議院議員にもなります。革新官僚から「政治家」となった瞬間でした。

岸が入閣した東条内閣は太平洋戦争を開戦した内閣として知られていますが、そのような状況のなか、いよいよ本格的な「戦時体制」となった日本において、岸は産業体制のさらなる統制を断行。

さらに軍需省創設にも力を注ぎ(1943年)、軍需生産の効率化に寄与。商工省は軍需省に吸収され、東条が自ら軍需大臣を兼ねますが、岸も次官として東条を支えていました(ただし、国務大臣の地位はそのまま)。

しかし、このときすでに戦局は悪化の一途をたどっていました。

一転、反東条運動に加わる

空襲
敗戦の色が濃くなるなか、岸は突如として反東条運動に加わる(写真はアメリカ公文書館サイトより)
1944年、日本はアメリカ軍に相次いで拠点を奪われ、劣勢は明らかな状態でした。それとともに「東条責任論」もささやかれはじめ、彼の求心力は急速に落ちていきます。

そして同年7月、サイパン陥落。日本の制空権はほぼ奪われる形になります。これを機に、岸は「戦争続行の不可能」を主張し、東条と対立するようになります。

東条は岸の更迭などを含む大幅な内閣改造を重臣グループに提案しますが、重臣たちも東条を見放していました。こうして東条内閣は倒壊することになります。

岸がなぜいきなり反東条にまわったのか、よくはわかっていません。終戦後の訴追を見越した「アリバイ作り」という説もありますが、この時点でそこまで考えていたかどうかも疑問があります。

このあとも彼は動きます。終戦直前の1945年3月、大政翼賛会の政治部門は崩壊し、大多数が「大日本政治会」に入りますが、岸は自ら実質的リーダーとなって「護国同志会」を結成します(ただし、このとき岸は議員を辞職していた)。

このようななか、岸は敗戦を迎えたのでした。

次のページでは岸の戦犯訴追、そしてその後の政治家としての活動についてみていきます。
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