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レバノン政治基礎知識2006(2ページ目)

イスラエルの侵攻で揺れるレバノン政治の基礎知識最新版です。レバノン建国の経緯から、複雑な宗派構成、レバノンを取り巻く国際情勢、ヒズボラの基礎知識まで解説しています。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【複雑な宗派モザイク国家レバノンとは】
2ページ目 【レバノン内戦とシリア・イスラエルの介入】
3ページ目 【武装組織ヒズボラをめぐる国際的な構図とは?】

【レバノン内戦とシリア・イスラエルの介入】

内戦の勃発とシリアの介入

レバノン宗派
レバノンの宗派人口。ただし現在、正確なものがあるわけではなく、シーア派はもっと多いかもしれない。
1975年、キリスト勢力とパレスチナ勢力の衝突で始まったレバノン内戦は、キリスト勢力民兵、イスラム勢力民兵、PLO(パレスチナ解放機構)、さらには周辺諸国のシリアやイラン、イスラエルも加わって複雑きわまりない抗争を繰り広げます。

キリスト勢力とイスラム勢力が抗争する理由は明らかでしょう。既得権を守りたいキリスト教勢力、それを打破したいイスラム勢力、そしてそれに結びつくPLO。

シリアは、レバノンがキリスト化しないようにするため、当初はイスラム勢力とPLOを支援してきました。しかし、徐々にPLOが優勢になってくると、今度は「レバノンのPLO化」を阻止する必要が生まれてきました。

レバノンがPLO化すると、イスラエルがレバノンに侵攻するだろう。その戦いにシリアも巻き込まれる……これを避ける必要がありました。もちろん、レバノンに対するシリアの野心もありました。

こうしてシリアはレバノンに直接介入し(1976年)、PLOと戦ってPLOに「レバノン主権の尊重」を認めさせ、自らは「抑止軍」として駐留するようになります。こうしてシリアはレバノン情勢に深くかかわり合うようになりました。

イスラエルの介入とヒズボラの誕生

レバノン宗派地図
レバノンのだいたいの宗派地区地図。ただし複数の宗派が混在している地域も多い。
しかし宗派対立は収まらず、その混乱のなかレバノンのPLOはイスラエルへの攻撃を続けました。これに対抗してイスラエルは南レバノンを「安全保障地帯」として占領(1978年)。

国連はUNIFIL(国連南レバノン暫定軍)を派遣しますが、南レバノンはイスラエル軍の多くが撤退したのちも、イスラエルの下にあるキリスト教系民兵「南レバノン軍」が支配。UNIFILは無力でした。

さらにイスラエルはPLO排除を目指してシリアなどと交戦しながら首都ベイルートまで侵攻(1982年、いわゆる「レバノン戦争」)。窮地に追い込まれたPLOはチュニジアに移ります。このとき多数のパレスチナ難民がキリスト系民兵によって虐殺されました。……しかし、実際には「虐殺は至る所で行われていた」のですが。

アメリカを中心とした多国籍軍がレバノンに派遣され、事態収拾にあたります。しかし、このころからイラン革命(1979年)に刺激されて結成されたシーア派武装組織ヒズボラ(神の党)が活動をはじめ、多国籍軍にテロ攻撃を繰り返します。

革命によってイスラム国家を樹立し、激しい反米政策を掲げていたイランは、シーア派の国家でもあり、ヒズボラを支援します。ヒズボラ掃討を試みたものの、不調に終わった多国籍軍は撤退します(1984年)。

シリアはアマルという民兵組織を使い影響力を保とうとしましたが、やがてアマル支援のため直接レバノンに再侵攻します(1987年)。そんななかアマルがヒズボラと交戦しイランと一触即発の危機に陥ると、これを打開するためシリアはアマルの手を引かせるかわり、シリア軍の展開拡大をイランに了解させます。

そしてレバノン政府は分裂し、レバノン軍のキリスト系・アウン将軍は「首相」となりシリアとの戦争を宣言しますが(イラク・フセイン政権の支持を得ようとした)、逆にキリスト勢力は攻撃によって窮地に立たされます。

このような激しい混乱は、次第に多くの勢力の厭戦ムードを誘い、結局アラブ連盟が介入、シリア軍の南レバノン以外での大幅な駐留を認め、「シリアによる平和」で内戦を終了させる「ターイフ合意」が成立、内戦は終了しました(1989年)。中東和平を急ぐアメリカも、これを容認しました。

内戦終了、イスラエル撤退

ターイフ合意のもと、レバノンの国会議席はキリスト教優勢からキリスト・イスラム同数とされ、シリアの保護のもと、久方ぶりの平和が訪れました。勢力を増したヒズボラは国会に進出、最大のイスラム政党となります。

しかし、南レバノンでは依然としてイスラエル・南レバノン軍とヒズボラとの激しい戦闘が続いていました。しかしイスラエルの被害は徐々に大きくなり、世論は南レバノンからの撤退を要求するようになりました。

このようななか、イスラエル軍は電撃的に南レバノンから撤退、南レバノン軍兵士の多くはヒズボラなどに投降して南レバノンは「解放」されました(2000年)。この過程で、南レバノンのヒズボラの力はさらに強化されました。

しかし、イスラエルもだまってはおらず、止まないヒズボラの攻撃を抑えるためシリア基地を空爆。南レバノン周辺が緊張状態にあることには変わりない状況でした。

シリアの撤退

アメリカは、シリアのレバノン駐留を、「湾岸戦争での多国籍軍への参加の見返り」として容認してきました。しかし、駐留が長く続き、イスラエルの南レバノン撤退も実現すると、アメリカはシリアに撤退の圧力を強めることになります。

シリアとの関係見直しを模索していたハリリ元首相がシリアによって暗殺されると、レバノン国民のなかからも反シリアの動きが高まり、アメリカの圧力もあり、シリアはレバノンから撤退します。これは「杉の革命」ともいわれます(2005年)。

それは、周辺国にほんろうされてきたレバノンがはじめて主権国家として主体的に振る舞うことのできた瞬間でした。

しかし、レバノンの「主権」は長く続かなかったのです。次ページからお話するイスラエルのレバノン侵攻によって。

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