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自民党の歴史(11)橋本構造改革の挫折(2ページ目)

鳴り物入りでスタートした橋本政権。ライバル新進党の低調をよそに、橋本首相が目指した構造改革は順風満帆に見えましたが……なぜ挫折したのか、振り返ります。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【橋本構造改革はなぜ「挫折」したのか】
2ページ目 【経世会第一派閥へ復帰、新進党解党】
3ページ目 【金融不安と橋本退陣、小渕=野中体制へ】

【経世会第一派閥へ復帰、新進党解党】

新進党崩壊への序曲

一方、新生・公明・民社・日本新党らが結集、巨大野党として誕生した新進党は、暫定的に初代党首となった海部俊樹が、1995年の本格的な党首選挙には立候補せず。

結果小沢一郎羽田孜が激しくぶつかり、小沢が党首に就任していました。

このころから、「盟友」だったはずの小沢と羽田の距離が開きはじめます。この不協和音は、独裁的な党運営を強めようとする小沢体制の中でさらに広がっていきました。

また、小沢が期待していた旧公明党の強力な支持基盤である創価学会も、自民党による「政教分離に反する」というキャンペーンの下、あまり目立った動きができずにいました。「権力の座が遠くなった」と感じた創価学会・旧公明は、小沢から離れる動きを見せ始めます。

こうして新進党には、結党2年もたたずに早くも「終わり」のムードが漂いはじめるようになります。96年総選挙後にはすでに数名の議員が、自民党に復党しはじめるようになっていました。

経世会、第一派閥に復帰

さて、96年秋に橋本政権は解散を断行しました。小選挙区比例代表並立制のもとでの最初の総選挙です。結果、自民党は過半数には及びませんでしたが239議席を獲得。ライバル新進党が156議席にとどまったことを考えると、まずまずの成績でした。

薬害エイズ問題で一躍名をはせた菅が鳩山由起夫らさきがけの議員と結集して作った新党・民主党も、この時点では躍進とはいえない52議席。社会党から名称変更した社民党とさきがけは激減。

こうして、事実上、少数単独政権ながら久々に自民党単独政権が誕生しました。一応社民・さきがけとの「自社さ」枠組は維持するものの、社民・さきがけは閣外協力ということになり、自民党優位の政権が復活するのでした。

そして、新人候補をかき集めた経世会は50議席を獲得、参議院をあわせ自民党第一派閥に復帰しました。経世会はここが第一派閥復帰へのチャンスと、総選挙で活発に動いていました。第一線から退いていたオーナー・竹下も影で活躍します。

こうして取り戻した「王者の座」。しかし、みな「かつての轍をふむな」。巨大派閥として突出することで、また分裂を起こしたり、あるいは他派閥の攻撃対象になることを、経世会は恐れていました。

結局新人事は派閥均衡人事となり、蔵相に第2派閥の領袖三塚博。外相は留任、厚相に三塚派小泉純一郎。官房長官留任(後に梶山からやはり経世会(小渕派)の村岡兼造に)。総務会長が同じ三塚派の森喜郎に交代。全体的には派閥均衡で、要職には各派の主要メンバーが入る形になりました。

消費税率の切り上げと橋本改革の本格的始動

さて、この総選挙で自民党は「増税」を訴えて勝利しました。財政再建のために消費税率をあげることはいわれていたことですが、これを正面切って選挙で訴えることは難しいだろうと考えられていました。

しかし、橋本首相の国民的人気、消費税の定着、パフォーマンスやドタバタ劇に飽きた国民への意外なほどの「まじめな増税論」の浸透により、自民党は乗り切ることができたのです。こうして97年4月から消費税は地方消費税分あわせて5%に引き上げられたのでした。

さて、増税を訴えたからには、さんざん「ムダ」を主張されてきた行政の改革は、もうまったなしでした。橋本政権は、これからいわゆる「6大改革(財政構造改革、金融改革、地方分権改革、社会保障改革、教育改革、行政改革)」を実施していくことになります。

規制緩和も財政再建も、そして同時に社会保障対策も行うという、「ネオ・リベラル的」な(『日本政治の対立軸』大嶽秀夫著による)壮大な橋本改革がここに本格的にスタートするのでした。

さっそく総選挙後、行政改革会議が発足。橋本龍太郎を会長とし、財界・有識者・メディアの大物たちが、委員となって論戦を展開していきます。

しかし、景気は悪化しはじめていました。「住専処理」で簡単にカタがつくほどには、不良債権問題の根っこは浅くなかったのでした。それは、翌年火を吹きます。

新進党の消滅と次なる小沢戦略

そんななか、経世会は新進党議員の切り崩しにかかっていました。総選挙の結果に衝撃を受けた新進党のなかから、経世会のよびかけに応じて離党、または自民党に復党する議員がぽつ、ぽつと出始めていました。

そして、小沢・羽田の対立も激化していました。

小沢とともに2大政党制の樹立をめざす渡部恒三は新党結成に動く羽田をなんとか慰留しますが、1996年内の創設をめざす羽田は急ぎ「太陽党」を結成してしまいました。

翌年には細川護煕元首相も離党。その年の末、党首に再選された小沢党首は、いきなり新進党の解党を宣言します。

小沢は多くが不満分子以外の大半がついてくるだろうと思っていたようですが、結果は旧民社党系が新党友愛を、旧公明党系が新党平和を結成。やむなく小沢は自由党を結成、ここに新進党は消滅したのです。

しかし、小沢には次なる一手を頭に描いていました。すでに、新進党時代から、小沢系と自民党の中堅・若手議員たちとの間で超党派の集団「日本の危機と安全保障を考える会」が作られていました。この影にいたのが、小沢と亀井静香です。

握手
新進党も潰え、一見視界良好に見えた橋本政権、しかしその青天の中に潜んでいたものは……?

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