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戦後衆議院の解散まるわかり!(2ページ目)

日本国憲法が施行されてから記念すべき(?)20回目となる今回の郵政解散。ここで、いままで19回の解散がなぜ行われたのかを見ていきましょう。これであなたも明日から日本政治史ツウ?

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【終戦直後~馴れ合い解散、バカヤロウ解散】
2ページ目 【60、70年代~黒い霧解散、ハプニング解散】
3ページ目 【80年代以降~死んだふり解散、嘘つき解散】

【60、70年代~黒い霧解散、ハプニング解散】

「話し合い解散」(1958.4.25)

鳩山首相は日ソ国交正常化と国連加盟を実現して勇退。その後石橋湛山が継ぎますが重度の肺炎で2ヶ月ほどで退陣。「元A旧戦犯容疑者」岸信介が首相の座につきました。

安保改定で有名な岸ですが、第1次内閣ではまだそれは本格化していません。党内外での基盤を固めるなら今、と岸は解散の方針を固めます。

一方、社会党もまた、勢力を伸ばすチャンスと、自民党の方針を了承します。こうして、岸と鈴木茂三郎社会党委員長との党首会談で、解散が決定しました。

結局、両党ともあまり勢力は変わりませんでした。しかし、社会党はこれを「敗北」と受け止め、その後の混乱(社会民主党(のちの民社党)の分裂、江田三郎の構造改革とその挫折)を生む遠因となっていきます。

「安保解散」(1960.10.24)

岸は、激烈な安保闘争で倒れ、吉田の系統に政権が戻ってきます。つまり、吉田政権時に活躍した、大蔵官僚出身、池田隼人の首相就任です。

彼は、傷ついた自民党再建のため、2つのことを行いました。1つは、経済政策最優先の姿勢です。国民の目を経済にそらすことで、自民党のイメージを変えようとしました。

もう1つは、「戦犯容疑者」「反動主義者」のレッテルを貼られた岸と好対照な「低姿勢」による政局運営でした。こと、浅沼稲次郎社会党委員長が暗殺されたときに国会で行った追悼演説は、涙を誘い、ソフトな首相像を人々に植え付けました。

そして機を見て「人心一新」をめざして、解散に踏み切りました。自民党は、安保闘争の痛手にもかかわらず、議席を増やしました。社会党も、民社党の分裂の分を、ある程度取り返しました。民社党は惨敗でした。

「所得倍増解散」(1963.10.23)

「ムード解散」ともいわれます。

日本は未曾有の高度成長の真っただなかでした。池田に対する国民の人気も高いものがありました。池田の「所得倍増政策」があたったわけです。

しかし、自民党内は早くも「ポスト池田」の動きが強まっていました。池田は同じ官僚出身の吉田と同じように党内工作に不得手でした。そして、同じ「吉田学校の優等生」佐藤栄作が台頭してきていました。

池田は、自分の実績を掲げて解散、選挙に打って出ます。結果、自民党の優位はそのまま、社会党も現状維持で、民社党がやや回復しました。

しかし、「勝った」池田を待っていたのはガンでした。東京五輪の閉会式の次の日、彼は辞職を発表したのでした。人生って、はかないですね……。

「黒い霧解散」(1966.12.27)

池田のあとを継いだ佐藤の進路は順風満帆に見えました。実力者も相次いで亡くなり、佐藤の長期政権が予感されました(実際、最長首相連続在職者になるわけですが)。

しかし、1966年、自民党議員などを中心とした大小さまざまなスキャンダル、疑獄事件が相次ぎます。永田町を「黒い霧」が覆っている、と批判されるようになります。

この年の総裁選で佐藤は再選されますが、思いのほかの批判票が出ました。佐藤は、低下した求心力を回復するため、解散総選挙に打ってでました。

やはり自民党は議席を減らしましたが、逆風の中、マスコミは善戦と評価しました。これで、佐藤は息を吹き返します。社会党は微減、そしてこの選挙で公明党が一挙25議席を獲得。多党化と社会党長期低落が始まっていきました。

「沖縄解散」(1969.12.2)

沖縄本土返還協定調印を果たした佐藤は、その勢いで解散に打って出ます。結果、自民党は圧勝、社会党は大敗しました。こうして、佐藤政権は長期化していきます。

しかし、佐藤はこの中で、自分の進退を見誤ります。自分が後継に考えていたのは福田赳夫でした(ちなみに小泉首相は福田の「かばん持ち」からスタート)。

しかし、佐藤が国政に専念する中、自民党内では田中角栄が着々と地盤を築いていました。こうして1972年、佐藤勇退のあとを、田中が引き継ぐことになったのでした。

「日中国交正常化解散」(1972.11.13)

庶民性から「今太閤」とよばれた田中角栄のブームは、列島改造論と、日中国交正常化の実現でピークに達しました。

この勢いで、彼は解散総選挙に打って出たのです。

しかし、予想に反し自民党の議席は減りました。社会党は増、共産党は議席を倍増させました。都市化が進む中、自民党の基盤は少しづつ揺らいでいたのでした。

「増税解散」(1979.9.7)

または一般消費税解散とも。

田中は金脈問題で失脚。続く三木武夫はロッキード事件を厳しく追及したことから「三木おろし」にあい、衆院を解散させることができないまま任期満了で総選挙を迎え、過半数割れの大敗で退陣します。(追加公認などでその後過半数は回復)。

そしてようやく福田が政権につきますが、自民党は「三角大福中」の激しい抗争に。総裁選で大平正芳が田中の支持を得て政権につきますが、抗争はやみません。

その間、経済はオイルショックの影響で低迷、1974年にはマイナス成長も記録します。大平は、解散総選挙で自民党勢力を回復させ、財政再建を図らねばなりませんでした。

しかし、大平は選挙期間中、財政再建にかける思いで「一般消費税」の導入に言及。これが有権者の反発を買い、自民党はまたも敗北しました。こうして党内抗争は、さらに激化して行ったのです。

「ハプニング解散」(1980.5.19)

激烈な「40日抗争」で、国会の首相指名候補に大平と福田が出馬する異常事態となりました。僅差でしのぎ、続投となった大平ですが、抗争は収まりません。

さて、参院選が近づいていました。このころ野党は、選挙の気勢を上げるため、通りもしない内閣不信任案を提案するのが常になっていました。このときも、「儀礼的」に内閣不信任案が提案されました。

しかし、福田、三木派が大量欠席。そのため内閣不信任案が通ってしまいました。これが「ハプニング解散」といわれるゆえんです。

しかし結果は自民党の圧勝でした。原因は、(1)野党の衆院選準備が(想定外だったため)まるでできていなかったこと、(2)大平が福田らを「許した」こと、そして(3)大平が選挙期間中急死し、同情票が集まったことなどにあるといわれます。

選挙後、いかにも調整型の政治家鈴木善幸が首相に就任。その後、中曽根康弘が、田中派の支持を得て、首相に就任します。派閥抗争は、収束しました。

◎1958年~80年の総選挙結果

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