天皇制の歴史を振り返るシリーズ二回目。天皇制はなぜ、衰えながらも幕末まで続いていったのでしょう。なぜ、だれも天皇にとってかわろうとしなかったのでしょう。しようとした人もいたのですが……
1ページ目 【複雑な土地制度「荘園制」の天皇制存続の関係】
2ページ目 【徳川家康・秀忠親子の「絶対王政」構想とその挫折】
3ページ目 【将軍権威再興のため天皇権威に挑んだ新井白石・松平定信も挫折】
【複雑な土地制度「荘園制」の天皇制存続の関係】
土地制度と天皇制
なぜ、天皇制は続いたか。いろんな原因があるでしょう。宗教的権威、政治的権威、天皇制を利用するという権力者の利点……これらも、当然、天皇制が続いていった重要な要因です。しかし、以外と語られないのが、「土地制度と天皇制」の関係です。
天皇がすべての土地と人民を所有するという「公地公民制」は、平安時代の中期には完全に崩れます。土地私有が認められたからですね。この私有地が「荘園」です。
荘園の領主は、最初は大寺院や貴族などでした。しかし、次第に、その土地の有力農民(「田堵(たと)」など)が土地を開墾し、やがてその土地の領主(「開発領主」)となります。彼らがやがて土地を守るため武装し、武士になるわけですね。
しかし、平安時代の段階では、まだ中央から派遣された貴族である「国司」の力は大きかったのですね。
彼ら国司たちは公地公民制の崩壊によって、むしろ力をつけます。国有地(「国衙領」)を事実上、私有化していくのですね。こうした国司たちを「受領(ずりょう)」などといいます。
この国司の権力に対抗するために領主たちは武装していった(もちろん、他の領主から土地を守る目的もあったのですが)のですが、それだけでは対抗手段としては不十分で……なにせ国司とまともに戦争したら「国家への反乱」ですからね。
その反抗をまともにやってしまって失敗したのが、もともと中央貴族・皇族の血をひいて武士たちを統率した平将門であり、藤原純友だったわけですね。
そのため、領主たちは他の手段を使って土地を国司の権力から守ろうとしたのです。
荘園の実質的領主=武士の成長
それが、中級貴族である国司よりも位の高い上級貴族に名目上土地を寄進することでした(もちろん、年貢の一定量を収めますが)。そして彼らから、領地に対する国司への税金納入を免除する権利(不輸の権)をもらうのでした。こうした「寄進地系荘園」はどんどん増加し、これは「摂関政治」の担い手として栄華を極めた藤原氏、そしてその後「院政」を行って権力を握った上皇たちの経済的基盤となったのでした。
寄進した領主は、「荘官」としての地位を認められ、領内の警察権なども掌握し、完全に国司から独立することができるようになりました(一方国司は国司で、残った領地を完全に私物化してしまうのですが)。
こうして領主=武士たちは力をつけ、やがて彼らの力が平氏政権、鎌倉幕府といった武士政権を誕生させることになるわけです。
鎌倉封建制の確立
はじめての武士政権であった平氏政権は貴族化してしまい、支持基盤だった武士の保護をすっかり忘れたため、やがて見放され、短期で消滅します。そのあと武士政権を作った源頼朝は、鎌倉幕府という武士を統率・保護する独自の政治権力体を作り、朝廷と一定の地位を置くことで、武士の権益保護者として君臨しようとします。
それが、武士を、荘園(あるいは国衙領)を管理するという役職「地頭」にすることでした。頼朝はこの職を、朝廷に認めさせたので、武士の荘園管理は正統性を持つことになり、武士たちは喜びました。
こうして、武士の荘園管理権は、朝廷から直接認められたことになり、武士は、それを実現してくれた頼朝からの「御恩」=土地権利保障に「奉公」する、という封建制度が出来上がったのでした。
「天皇制」枠組に依存した中世までの荘園制
というわけで、日本の土地制度はずいぶん複雑になってしまいました。荘園は、貴族や皇族たちが名目上所有。しかし、実質管理権は地頭になった武士。よく、中世の社会を「朝廷・武士の2元支配」といいますが、それはミクロな世界でも、そうだったのですね。
もちろん、次第に武士の力は伸び、貴族たちの荘園への権利はますます弱くなります。しかし、武士も名目上は朝廷=天皇から認められた地位によって荘園を支配しているわけで、これを強奪するのもそんなに簡単にはできません。
というわけで、朝廷の力はどんどん弱くなっていっても、荘園制そのものが、天皇制を中心とした制度の下に成り立っていたので、よほどの「スーパー・パワー」が現れなければ、これを一元化して、天皇制をなくすことはできなかったわけです。
このような事情によって、天皇制は中世を生き抜いてきた、という側面があると思われます。天皇制の廃止、これはすなわち荘園制を根本から変えていくことになるからですね。それは、一人の力では難しい、難作業だったわけです。
もちろん、これをなんとかし、天皇制を「乗っ取る」ことを考えた人物がいなかったわけではありません。次のページでお話していきましょう。