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ミャンマー(ビルマ)の政治情勢

ノーベル平和賞アウンサンスーチー女史の軟禁解除でがぜん注目を浴びるミャンマー(ビルマ)情勢。軍事政権と民主化運動の対決だけでは読み切れない、複雑なミャンマー(ビルマ)情勢基礎知識。

執筆者:辻 雅之


( 2002.05.22 )

1ページ目 【意外と日本とのかかわりが深い、ミャンマー建国の歴史】
2ページ目 【アウンサンスーチーの登場と《暫定》軍事政権】
3ページ目 【外交問題にも発展、ミャンマー少数民族】

※「ミャンマー」という国名は現在広く普及していますが、軍事政権の一方的な改称によるもので承認しがたい、ということから改称前の国名「ビルマ」が使われることもあります。政治の基礎知識を紹介することを趣旨とする本ページでは混乱をさけるため、ミャンマー(ビルマ)という表記をします(一部の固有名称はのぞく)。

【意外と日本とのかかわりが深い、ミャンマー(ビルマ)建国の歴史】
軍事政権つづけるビルマ国軍は日本軍が養成した?
 

ミャンマー(ビルマ)が今の国のかたちで独立したのは第2時世界大戦終戦後まもない1948年のこと。インドやパキスタン、スリランカ(当時の国名はセイロン)などといっしょに「イギリス領インド」に組み入れられていたイギリスの支配体系からの独立でした。

このミャンマー(ビルマ)建国の背景に、日本の存在があったこと、意外と知られていないことです。

1941年、太平洋戦争開戦と同時に日本はシンガポール、インドネシアなど東南アジアを侵攻(フランス領インドシナは開戦前に侵攻)。ミャンマー(ビルマ)にも侵攻の手はのび、1942年には首都ラングーン(現在の名称はヤンゴン)も制圧、ほぼ全土を占領下においたのです。

ミャンマー(ビルマ)侵攻が比較的たやすく成功したのは、日本軍の侵攻部隊がミャンマー(ビルマ)人の民族主義者と手を組み、軍事的支援を行って独立運動を支援したという背景がありました。かれら民族主義者のリーダーこそが、ミャンマー(ビルマ)建国の父と慕われるアウンサンだったのです。

しかし日本軍はミャンマー(ビルマ)を占領すると、ミャンマー(ビルマ)の独立はまったく認めず、もっぱら日本軍の重要拠点として支配し続けようとします(のちに独立は認めますが、形だけのものだったようです)。これに反発したアウンサンらは、いっぽうで日本の敗色が濃くなっていったこともあって、日本から離れ、日本支配に対する抵抗運動をはじめるのでした。

こうして、日本が敗戦しミャンマー(ビルマ)がイギリスの支配に戻ったときには、アウンサンらの抵抗部隊(ビルマ国民軍)の存在はもはや無視できない大きさになっていました。彼らは抵抗運動でつちかった力を背景にイギリスと交渉を重ね、ほかのイギリス領インド諸国があいついで独立していくという流れも味方につけ、比較的すみやかに、かつ穏やかな形で独立をすることができたのでした。

しかし、アウンサンは独立を目前に控えて暗殺されます。このことが、このあとのミャンマー(ビルマ)の混迷の原因の1つと考える人も少なくありません。

アウンサンらが築いたビルマ国民軍は、独立後現在ミャンマー(ビルマ)国軍としてその力を継承。1960年代以降は直接政治に関与し軍事政権を維持し続けています。

そんなミャンマー(ビルマ)国軍の組織は、最初彼らに支援を与え軍事訓練を施した日本軍に近いといわれます。ミャンマー(ビルマ)国軍の軍事政権も、日本戦中の軍人首相による政権をほうふつとさせるところもあります。

次のページでは、その後のミャンマー(ビルマ)政治、軍事政権と民主化運動、アウンサンスーチーの登場についてみていきましょう。

▼ミャンマー(ビルマ)政治史年表(1)
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